やりたい事が見つからない君へ
「私は何のために生きて、どんな役割を持っているのか?」そんな問いを少なからず考えたことはないだろうか?
先に答えを渡すと、冷たい言い方になってしまうが、そんなものは"ない"のだ。私が生きる意味など、そんなものはない。考えるだけ時間の無駄だ。
実はこれ、数十年も前からフランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルが答えを出している問題なのだ。
その人の人生の意味や目的といったものが、あるようで存在しない。持って生まれたものなんてどうでもいい。これからなろうとするもの、だけれどもまだなっていない、なれていないものになりうるということだけが重要なのだ。
ジャン=ポール・サルトル
僕は20代でアパレル業界に絶望し、一つの夢を失った。そんな時、一人でアメリカ西海岸を一周半した。
ロサンゼルスからラスベガスまで走行距離20万kmのフォードのセダンで進み、グランドキャニオンの裏側でインディアンに騙され偽物のシルバーピアスを高値で掴まされた。インディアンは嘘をつくのだと貴重な体験だった。そこからモニュメントバレー、アンテロープキャニオンなどのグランドサークルを回り、デスバレー、シアトル、サンノゼなどを巡った後、ハイウェイでスコールに遭遇し、何度も死ぬ思いをし、その夜に遺書も書いた。それからサンタモニカに長期滞在した際に知り合った8歳の男の子に諭されることで我に返り、急遽帰国するわけだけど、アメリカに"自分"なんていなかった。そう、自分探しの旅で僕が得たのは"自分なんてない"という厳しい現実だ。
時を戻そう。この問いに多少強引にでも正解を導きだそうとすると、生物学的な答えは種の保存、つまり、人間という種をより長く、より強く子孫に引き継いでいくことだけということになるだろう。別にツマラナイ答えではないが、面白い答えでもない。仮にこれが絶対的な答えだとしても、そうだとしたら人間は長く生き過ぎる。
種の保存を大前提として生きるただの動物と人間はやはり何かが違うのだろう。そして、いいのか悪いのか僕には判断できないが、人間とただの動物の違いは心だろう。人間には自我がある。それ故に、悩むのだ。
どのようなマインドを持ち合わせたとしても、この日本で育った限りにおいては「何者かにならねばならない」といった強迫観念のようなものが存在する。経済的な成功者が夢を叶える方法を語り、テレビ、Youtubeなど、さまざまなメディアで露出する。結果をだしたプロアスリートが「夢は叶う!」と断言する。いいじゃないか。
でもね、じゃぁ、夢がない人はどうすればいいの?やりたいことが明確じゃない人はどうすればいいの?という問いには"ちゃんと"誰も答えてくれてないんじゃない?がんばれ?いろんな経験をしろ?確かにどれも一理あるかもしれないんだが、どうもしっくりこない。僕から言わせれば最初からやりたいことが明確な人間、更にはそれで若いころに結果が出てしまうような存在なんてものはレア中のレアで人類の中で1%も存在しない希少種だと思う。でも、この希少種は希少種が故にメディア映えするのだ。希少種が当たり前のように話す内容を参考にはすれど、鵜呑みにしちゃいけないと僕は思う。彼ら、彼女らはただただ運がいいだけなのだ。であるとするならば、そうじゃない人にはそうじゃない人なりの戦い方があるはずだ。
だれかがやり遂げた、という事実は僕たちの意識や無意識に働きかけ、「私にも出来るかも!?」という思いに繋がるという意味において、人類にロールモデルは必要だ。ただ、それらに導かれなかった人たちに向けて書こうと思った。
自身が40歳を超え、多くの経験をし、沢山の人を見てきた。特に人を見るということに関しては人一倍時間を費やしてきた自負がある。そんな中で、最近、少しずつ分かってきたことがある。そしてある程度は論理的にも説明できるようになり、多少の再現性も手にいれた。
あくまで「こんな方法もあるんじゃない?」という選択肢の一つとしてみていただければと思う。
反面教師のススメ
前述の通り、最初からなりたいものが明確な人間なんてほんの一握りだ。ただ、希少種は希少種が故にメディアに取り上げられやすい。そして、希少種の話には妙に説得力がある。当然だ、自分の意志でゴール設定をし、誰にもお願いされずにそれを成し遂げた人たちだ。それはそれは強烈である。故に、なりたいものが明確であることが当たり前に映ってしまい、結果、苦しむ人たちが後を絶たない。なにより、僕もその被害者の一人だ。
そこで提案だ。なりたいものがない、やりたいことがないという人には、反面教師をお勧めしている。カミングアウトすると、僕の根源的なエネルギーはすべて反面教師になっている。父親のような経営者になりたくない、あの人のようになりたくない、あの経営者のように生きたくない。"過去の"僕には「こうなりたい」といった欲求がほとんどなかった。人並程度にちょっとお金持ちになりたいといった欲求はあったが、決して強烈なものではない。ただ、「こうなりたくない」というものには強烈な臨場感(リアリティ)を醸成することが出来たのだ。
コーチング的に言えば、大事なことは如何にゴール設定に臨場感を醸成することが出来るかだ。でも、ほとんどの人は自分自身でゴールを導き、臨場感を醸成し続けることは難しい。人間の本質は怠惰なのだということを忘れてはいけない。どれだけ崇高なゴール設定があったとしても、日々こなさなければいけないタスクに向き合ううちに、いつの間にかコンフォートゾーンに引き戻される。重力と言ってもいい。だからこそ、それに気づかせてくれるコーチやメンターの存在が必要不可欠になってくる。
数年に渡り高校生向けの講演を通して述べ数百人に向けて質問していたが、「こうなりたい」といった欲求があるのであればそれに越したことはないんだけど、9割以上の人は明確な「こうなりたい」を持ち合わせていない。体感値的に社会人もほとんど比率は変わらないだろう。
つまり、明確な欲望を持ち合わせていないのであれば、「こうなりたくない」というサンプルをかき集めればいいのではないか?(※)
(※)注意
「こうなりたくない」という意思によりそれとは真逆の「こうあるべき」が生まれてくるはずだ。それを昇華させることで「こうなりたい」が生まれてくる。気をつけなければいけないのは、反面教師は一歩間違えばダークサイドに落ちかねない。光と闇は紙一重だ。決して「こうなりたくない」だけを増幅し、誰かの悪口だけを流布し続けるルサンチマンにならぬように慎重に扱う必要がある。
余談1
「個人」という言葉は江戸時代には存在していなかったのだそうだ。個人という概念をそれ単体で説明するまでに多くの年月を費やしたのだともいえるだろう。では江戸以前は個人をどう説明したのかでいうところだが、それには投影が必要不可欠なのだ。自身はいつでも他者の投影で出来ている。あなたは、〇〇の子、△△の友達、など、他者の投影である。オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、マルティン・ブーバーがいう、「人間は〈なんじ〉に接して〈われ〉となる」である。
質の良い一次情報を手に入れるためには?
反面教師から自身のやりたいことを導くには、多くの反面教師による一次情報が必要だ。他者に興味を持ち、よく観察し、情報を集めよう。また、効率よく一次情報を集めるためには今とは異なるコミュニティ上に名乗りを上げなければいけない。
Googleにインデックスされていない情報を検索することはできないし、Twitter上でつぶやかれていなければ偶然タイムラインで見かけることもないだろう。つまり、世の中に出ていない情報は存在していないものと同じだ。
有意義な情報を無料で露出している人々を揶揄する人々もいるが気にするな。9割は嫉妬だ。情報を出し続ける人に最も良い情報は集まってくるのは普遍の真理だと言えるだろう。
つまり、質の良い一次情報を手に入れるためには、現在の仕事で結果を出すことが最も効率の良い方法となり得る。その職業のエキスパートになり、情報を発信すればおのずと情報を集めやすくなるからだ。情報に優位性があればこれまでと異なるクラスターからの情報も舞い込んできやすくなる。足元の仕事を頑張れ、というのはこのことなのだ。
余談2
「SNS上では怖い人、実際に会うといい人」というブランディングは非常に昭和的でおじさん的であり、お勧めしない。何故なら、若者にとってのリアルとはもはやSNS側のことなのだ。
自身の年収は付き合う人5人の平均!?
最早都市伝説に近いかもしれないが、これも一理あるだろう。だけれども僕が言いたいのは年収の話なんかではなく、人は周りの人に影響を受けまくるのだという真実だ。
誰かの悪口で盛り上がる飲み会や組織なんかにいては人生の盛大な無駄だし、その人々は一生の友にはなり得ない。更に、自身が心地よい環境に身を置いているのであれば、常に居心地の悪い場所にずらしていかなければ反面教師の質は上がらない。選択肢は常に迷ったら辛い方へ取るべきだ。心地よいコミュニティは現状維持を強化してしまうことを忘れてはいけない。
途中まとめ
これまでの反面教師像を洗い出す→情報を発信する→情報を集める→情報の質を上げる→意図的にずらす(居心地の悪い方へ)→無限ループ
※結果が思い通りに出せて慣れてきたり、居心地が良くなってきたら、抽象度をあげられるような仕事にずらす、コミュニティにずらす、のが必須。
運がいいとはどういう事なのか?
「人間の運は平等にながれている」「運とは引き寄せるものだ」全部一理ある。学生時代にプロ雀士を目指していた身としては、如何に運を引き寄せるかというのを強く意識し、運がないときに無駄なチャレンジをしなかった。強い雀士はこれを徹底しているのだ。確率論で戦えるほどプロは甘くない。
運という概念は非常に曖昧なものだ。そんなものはないという人もいるし、確実に運としかいいようがない事象が時折あるのもまた人生だ。そんな運信仰者な僕なのだけれど、運がいいというのは「たまたまその場に居合わせること」なのではないかと強く思うようになった。ファスト&スローのダニエル・カーネマン的に言えばシステム1(直感的)がなせる業だろう。
僕は、たまたま反面教師を繰り返す人生だった。たまたま、ブログを毎日書いていた。たまたま、書籍を出版していた。たまたま、SNSをやっていた。たまたま、多くの人に会う機会が人よりも多かった。たまたま、運が良かった。
努力の賜物?一歩踏み出す事、継続させる事に関しても一理あるかもしれないが、本当にそうか?たまたま、当時の彼女と別れ、頑張る動機が出来ただけだ。たまたま、ショートスリーパーであり、たまたま、素晴らしいメンターたちに出会い、たまたま、頑張れる環境下にいただけではないのか?これを運と言わずしてなんというのか、他に例える言葉が見つからないのだ。
運がいいというのは「たまたまその場に居合わせること」なのだろう。
すべてに感謝せよ
昨年、京都でもっとも名の通った寺の住職と話す機会があった。「家族で苦手な人はいるか?」という質問だった。僕の答えは「Yes」だ。住職は「すべてに感謝しなさい」とだけ言った。刹那的に理解した。僕のベースは反面教師なのだから、その土台となり得る彼らがいなかったら僕は意識が高いだけで現状に文句だけを言い続けるルサンチマンに成り下がっていたに違いない。今ここに居合わせることもなかっただろう。
僕は決して決定論者ではないが、生まれた順番によって運命は書き換わっていた可能性が高いのだ。遺伝子や環境で説明できることなら、兄弟で同じような道を通ってきているはずだが、辿った道は全く異なるものだ。もう、遺伝子でも環境なんかでもない。これを運といわずしてなんと言えるんだろう。
余談3
日本人には慣れ親しまない寄付という行為は、この「運」に気づいた人がするものなのだと悟ったのはこの頃だ。
自己中心的な動機でも構わない
最初の動機が自己中心的な動機、例えば「お金持ちになりたい」でも一向にかまわない。それは抽象度を引き上げれば「社会の為に」になり得るからだ。
抽象度とは、イソップ寓話「3人のレンガ職人」の話がわかりやすい。有名な話なので詳細は割愛するが、3人はレンガを積んでいた。それぞれに何をしているのか尋ねると、1人目は「親方の命令でレンガを積んでいる」と答え、2人目は「レンガを積んで壁を作っている」と答え、3人目は「偉大な大聖堂を作ってる」と答えたという話だ。
3人のやっている仕事は一緒なのにも関わらず、抽象度が明らかに違う。更にこの話にはオチがあって、10年後、1人目は相変わらず働き続け、2人目はより高賃金な危険な仕事をしていた、3人目は多くの職人を輩出し、出来上がった大聖堂には彼の名前が付いたのだそうだ。3人のレンガ職人から見る教訓は、多くの問題は抽象度が低いことに起因するということだ。
現実世界で例えよう。法人において売上は価値提供の合算であり、利益は工夫の合算と言える。仮に自己中心的な事業や社会悪であったとすると、刹那的に売上があがることがあっても、継続的に売上を上げ続けることは出来ないだろう。世の中の仕組みはよくできている。欠陥があるのは間違いないが、それでも資本主義というのは他人を幸せにしなければ自分が幸せになれないという素晴らしいシステムだ。限られたマーケットの中でだれかしかに支持されるからこそ成り立つ。他人を幸せにするということを誰よりも抽象度高く考えた人こそが資本家たり得る。つまり、全部繋がっているのだ。
足るを知る、腹八分目、これらの言葉が示すように、自己中心的な動機の先には永遠なる喉の渇きしかありえない。だから、仮に入り口が自己中心的な動機でも、何も無いよりは良いだろう。継続するうちに自然にでも抽象度が引きあがっていく可能性がある。あとは個人差はあれど尺の問題だ。自己中心的な動機はきっかけになり得る。そこから抽象度が引きあがってくればすべての物事を包括することが出来るようになるからだ。
親の言うことなんて聞いてはいけない
常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。アルベルト・アインシュタイン
親が持っている常識は、子どもの常識ではない。加速度的に変化している現代において、昔の人間の過去に形成された偏見に振り回される必要はない。親はいつでもドリームキラーになり得る。勿論、彼ら彼女らに悪意があるわけではないのは百も承知だが、悪意がないだけにたちが悪い。正義の敵は悪ではなく、いつでも異なる正義であるという話同様に。
自分が親になってわかったことは、親が子に対してできることなんてほとんどないということだ。もし仮に良い影響を与えることが出来るのだとすれば、興味を抑制しないこと、自分の当たり前を押し付けない事(当たり前は時代によって変化する)、機会を与える事、生き様を見せる事、親にできるのはこの4つくらいじゃないか?と強く思う。
神戸大学社会システムイノベーションセンターの西村和雄特命教授と同志社大学経済学研究科の八木匡教授は、国内2万人に対するアンケート調査の結果、所得、学歴よりも「自己決定」が幸福感に強い影響を与えていることを明らかにしました。
自分で決めることが幸福度につながるのは世の中の真実の一つだ。繰り返しになるが、親は最も強力なドリームキラーになり得る。自分の人生に責任を取れるのは自分だけだ。であるとするならば、仮に転ぶとしても自分で決めて転ぶ方がいいに決まっている。
自分で決めたことで失敗したら、自分自身で立ち上がれる。星野佳路
日本を代表する経営者の一人、星野リゾートの星野佳路さんもこのように言っていた。人に決められたことで躓くと「ほれ、みたことか」となりがちだが、自分自身で決めたことであれば人は自分自身で立ち上がれるのだ。
自分の人生だ、自分で決めよう。
他人のものさしで測るな
以前、幸福の定義は選択肢の数だと思っていた。でも、全国を周り、数々の企業を見るうちに気づいた。選択肢の多さが人を不幸にしてしまうケースがあるのだ。いや、なんなら不幸にしてしまうケースのほうが明らかに多い。身の丈に合わない情報は人を不幸にもする可能性を秘めている。
そういう意味において、ホーキング博士の言うとおり、SNSは人類を不幸にするのかもしれない。
私にとって交流のための技術を使用する可能性は正真正銘の解放となり、私はこれなしに自分の仕事を終えることは決してできないだろう。しかしこれはまた電話を持っている全ての人にとって、最も貧しい人々にとってさえも、最も裕福で、最も成功している人たちの生活を観察することを可能とする。スティーヴン・ホーキング
自己評価が他人のものさしを通さないと測れないというのは不幸の始まりだ。どこまで行っても自分は自分、他人は他人だ。仮に比較しても良いものがあるとするならば、それは過去の自分だけだ。そういう意味において承認欲求というのは外部刺激に反応しているという点において、非常に動物的であり、人間的ではない。どうせなら人間的に生きよう。
まとめ
「やりたいことがない」としたら、まずは内省することをお勧めする。自分は何が好きなのか?何をしている時が夢中になれるのか?何をしている時が食事や睡眠を忘れて没頭してしまっているのか?そこに探りを入れてみよう。ポイントは、コンテンツ自体に注目することではなく、そのコンテンツの抽象度を引き上げたときに見える世界に注目することだ。それでも見つからない人は他人に関心を寄せ、まず観察するところから始めてみればいい。あとは前述した通りだ。
最後に大事なことを要約すると、自分の中に答えがある人なんて希少種だということだ。であるとするならば、ゴールは自分の中から見つけるものなんかじゃなくて、自分自身で作るものだということだ。今ではこんな簡単に思えることに気づくのに40年ほどかかってしまった。
長々と今の僕にわかっている事を書いた。全部が絶対的な正解だと思っているわけではないし、僕の見解だって生存バイアスが強く効いている可能性が高い。それを踏まえて読んでもらえて、少しでも参考になるところがあればそれだけでも嬉しい。半月近くかけて秘伝のタレのように継ぎ足し継ぎ足しで書いていった甲斐があるというものだ。
願わくば、これまでに僕の講演を聞いてくれた全国の高校生達にも届くといいなぁ。
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