ラーメンハゲのモチベーションと他者の視線: アスリート・傭兵・プロレスラー(2)
先の記事では、研究者のモチベーションモデルには、アスリート型(技術競技志向)傭兵型(スポンサー至上志向)プロレスラー型(素人人気志向)の三種類あって、「誰の視線を気にしているか」ってのが価値観をおおきく左右するという話を書いた。
今回はこの思考ツールで、例の「ラーメンハゲ」氏の動機モデルを分類して考えてみようと思う。
ラーメンハゲの視点とモチベーション
現代日本のネット社会に生きている人には「ラーメンハゲ」こと芹沢氏の紹介は必要ないだろう。「ラーメン発見伝」、「らーめん才遊記」、「らーめん再遊記」のらーめん三部作で、影の悪役主人公からオモテの変人主人公へと変貌を遂げた男。パンチの効いた毒舌で日本中の変人に愛されているラーメンバカ、性格の悪いのに憎めない男ランキング一位(当社調べ)である、かの男である。
彼の登場は、ラーメン発見伝 一巻第七杯「繁盛店のしくみ」。彼の自信作である鮎の薄口ラーメンを褒めちぎった主人公に、気に入ったそぶりを見せていた。
が、「同業者」と知った途端に手のひらを返すように罵倒と毒舌を並べ始める。
実にインパクト抜群の登場であった。これモデルがいるのではないか?と皆に思わせるこのリアリティ。
格闘技アスリートの血とマウンティング
彼の「素人顧客に対する愛情」と「同業者に対するマウンティング」の切り替わりはどこから来るのだろうか?先のモチベーションモデルに沿って考えてみよう。
まず、彼はこの登場時点で「プロレスラー型」としてラーメン世界のチャンピオンの地位を築いていた。プロレスラー型とは、「俺は強いというブランドを武器にして、マネタイズモデルを築き上げること」という人生戦略である。なのでプロレスラーにとって、観客は「格闘技はわからぬ素人さんだが応援して世評を作ってくれるありがたい存在」である。カメラの前、他の客の前では彼はあくまで「ベビーフェイスプロレスラー」の仮面をかぶる。
主人公がラーメン愛に溢れる発言をして自分の作品を誉めてくれた時には、非常にありがたい存在として「違いのわかる人間だ」「よく勉強しているねえ」とベタ褒めにする。
だが、それがライバルであるとなると話は別だ。ライバルより自分が強く賢いことを立証したい、自分より弱い奴に舐められるわけにいかない「アスリート=競技者」の血が途端に動き出す。
この辺、必ずしもアスリートモデルの人間の全てが敵対心むき出しとは限らないが、彼らのマウンティング癖は近くにいる人を居心地の悪いに追い込むことがある。大学の先輩や指導員でそんな人が一人や二人いなかっただろうか?こういう人は技術面でマメに育ててくれることはあるが、あなたがアスリート型プレイヤーの地位を脅かすと感じるほど強くなった場合には結構大変な人間関係になる場合もある。
顧客配慮とストレス
ラーメンハゲ氏に話を戻そう。彼は「傭兵=顧客スポンサーを取り扱う社長」としての顔も持っている。彼の「傭兵」としての動作パターンは、コンサルタントとして「カモ」を前にした時に明らかになる。金づるである店舗客の要請には、芹沢氏は必要以上に媚び諂って見せる。愛想笑いを振り撒き、間違った意見でも受け入れ、無茶な話も寛容に話を聞く。
だが、その内面では、この種の「バカな金づる」をこれ以上なく小馬鹿にしている。部下や同業者にオフレコで話す時には、「バカな金づる」への軽蔑が毒舌となって溢れ出す。そういうアクションが「ラーメン発見伝」の物語でちらほら、いやちらほらというには隠せないほど現れる。
(一方で、「らーめん才遊記」ではこのエゴは押さえ込まれて、大人の対応を身につけているのだが、この点はあとで語ろう)
これらの観点を鑑みると、芹沢氏の本質は「格闘家アスリート=マウンティングモチベーション型の技術至上主義者」であって、プロレスラーの役を上手く演じており、傭兵の役をビジネスとしてこなしている、というタイプの人間であることがわかる。
ミドルエイジクライシス:モチベーションの破綻と再生
後天的に身につけた「プロレスラー」「傭兵」としての顔。
その破綻が見事に明らかになるのが「らーめん再遊記」の物語である。
ミドルエイジクライシスを抱えて、芹沢氏は自分の中で「無理をしていた部分」を放棄し始めす。無理をしていた部分とは、まず傭兵部分。そしてプロレスラー部分である。
「傭兵=利益主導の顧客付き合い」は、もっともストレスの高かった部分なのだろう。
「らーめん才遊記」では、コンサルティングを会社として無難にシステマティックにまとめるようになった芹沢氏が描かれるが、その動きには以前の「ラーメン発見伝」で描かれるような若く溌剌とした感情の動きはなく、毒舌も淡々と吐露するような「大人」の動きになっている。
これは社会人としてならきわめて適切な立場だと思うのだが、良くも悪くもルーチンワークである。芹沢氏はミドルエイジクライシスを前にして、真っ先にこの部分を切り捨て、自分が認めた後継者に譲り渡す判断をした。
「プロレスラー=ブランド」については、彼の人生を賭けて気付き上げてきた名声であるので「らーめん再遊記」でも完全に放棄はしていない。名声を頼る仕事の依頼や相談事がこのシリーズの中心をなしているのだから。ただ一方で、この「ブランド」を自分の中で持て余してしまっことと、モチベーションを喪失してしまった様子が「らーめん再遊記」の一巻では描かれている。こうしてみると「自分のブランド」を十分楽しめて生きているのか、微妙である。
らーめん再遊記の一巻では、自分がラーメンバカであると再認識して自分に言い聞かせることで、モチベーションの消滅とスランプから逃れて再生を図っている
こうしてみると、芹沢氏の1番の本質は「格闘家=技術者」であって、他の全部の要素が崩れた時に自分を立て直すのは自分の技術者要素であるということを自覚している
他者視点とモチベーションと、再生
メタ的な話になるが、これらはおそらく原作者の久部緑郎氏の正直な気持ちなのではないのかという気もする。この作品ではメタ的な趣味がはみ出している。おそらく作内の芹沢氏と同世代である久部氏自身がなんらかの悩みにぶち当たった再生を物語に投影しているのではないかなあと推測している。私自身もいい歳になって、技術者として自分の生き方がわからなくなってくる世代であって、この物語は人ごとと思えない共感を感じたりする。そんなこんなもあり、このらーめん再遊記は私が今一番気になる漫画である。
アスリート格闘家=同業者の視点、傭兵=スポンサーの視点、プロレスラー=素人観客の視点、どこに重心があるかは人それぞれである。その重心に応じて異なる他者の視点を意識する多様性が、モチベーションの多様性を生み出す。
だが一方、人間、生きていくと、どれか一つしか持たないということはあり得ない。アスリートも部下を持てばプロレスラー的になるし、プロレスラーも顧客相手に傭兵的に動かなければならないかもしれない。傭兵も技術を学び直すためにアスリート的になることがあるだろう。そのような形で、自分の本来のスタイルとは異なる形で「他者の視線」を感じざるを得なくなる。
しかし、そのような「本来スタイルとは異なる他者視点」は、気がつかないうちにストレスになって自分の首を絞めていくことがある。そこから逃れるには「自分の本来のモチベーションスタイル」を見つけ出さないといけない。「らーめん再遊記」はそんな疲れたビジネスマンに再生の方法を教えてくれるかもしれない。
(・・・まあ、芹沢氏のことだから、金払わずには教えてしれないかもしれないけどな!!)
なので、疲れた中高年の皆さん、自分を取り戻すため「らーめん再遊記」を読みましょう!
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