『「国語」から旅立って (温又柔)』【読書ログ#9】
蕎麦が食べたくなり出かけたのだが、うっかり本を持たずに出てしまう。本をもたずに一人で食事は無理。電車も無理。病院の待合も無理。そういうふうにできてる。仕方ないので書店に立ち寄る。
書店の棚でこの本を見かけたとき、小学校に入学したての娘に「こくごってなに?」と聞かれたのを思い出した。腹も鳴るし、時間も限られているしで、中身も見ないで買ってしまった。
最初、教育にまつわるエッセイ集かなにかかな? なんて思っていた。蕎麦屋で焼きなすを齧りながら読み始めると、全然違う話ね。著者が、みずからの出自とアイデンティティーをふりかえりつつも、そのじつ骨太な内容のエッセイだった。
著者の温又柔さんは、三歳の頃に台湾から両親とともに日本にやってきた。そして、それ以来日本で過ごしている。国籍は中華民国(台湾)で、日本語を使って日本で生活をしてきた。そして、日本の小学校に入り「こくご」を学ぶ。そんな生活のなかで、日本語はずいぶんと上達した(芥川賞候補になるくらい!)が、中国語のことはすっかり忘れてしまう。
温さんにとって「こくご」とは日本語なのか、中国語なのか、台湾語なのか。日本語しかしゃべれない台湾人のアイデンティティーはどこにあるのか。自分そのものを指す言葉が無いもどかしさのなかで、どんな事を思い、どんな事を感じできたのか、その時々の率直な思いを綴ったエッセイだ。
周りの大人は名前を知ると中国人として見てくる、中国に行けば「中国語が少し上手な日本人」として見られる。勇気を振り絞り「私は中国人です」と発すれば、中国人からは「あなたの中国語は下手ね」といわれ、日本人からは「大丈夫、名前さえ言わなければ(中国人だって)ばれないから」と言われる。そんなことがあるたび、少なからず傷つき思い悩んでしまう。他人の言葉にではなく、答えのない自分に気がついて傷ついている。
やがて温さんは、言葉を書き、言葉で伝える事に喜びを見出していく。その時に使う言葉は「日本語」だ。
日本語は、日本人だけのものじゃない。日本語を使って思いを伝えているのは日本人だけじゃない。
自ら「中国語がへたな」と枕に付けて自己紹介する温さんは、前向きで、自分に素直で、多分怒りっぽくて、ユーモアもある素敵な人だ。優しい両親、友人、比較的めぐまれている学校環境に支えられもきた。きっと苦労もあっただろうけど、とても優しい空気の中でアイデンティーを形成している。きっと、両親が良い環境をあたえる努力を惜しまなかったのかなと思う。見習いたい。
数日前、娘に「ニーハオ!」と挨拶をされた。いきなりなのでびっくりしつつ「ニーハオ!」と返すと「シェーシェー!」とお礼をくれた。クラスメイトに中国から来た子が居て「日本語がまだ話せないから、一緒に中国語でしゃべるの」とか言っている。かわいい。みんなかわいい。相手の子の境遇は知らないけど、日本で楽しく過ごしてくれたらなと思う。思い悩むことが少なければ良いなと思う。娘がその助けになると良いなと思う。