【考察】ドリトライ最終話「令和」は本当に蛇足だったのか【心の強さ】

 つい先日、最終巻(二巻)が発売されたド級の打ち切り本格戦後ジュブナイル漫画「ドリトライ」。

 

 全19話という話数は今年WJに連載された作品の中ではぶっちぎりでワーストの漫画であるアイスヘッドギルよりも1話短いものであり、改変時期の都合とはいえ少し納得が行かなかったりはするのですが、「18話で終わっていたほうが綺麗だった」「最終回は蛇足だった」「人造人間100の『蛇足』よりもこっちのほうが蛇足」といった意見もよく耳にします。

 正直、私も初見ではそういった感想を抱いたというか、「編集の連絡ミスで1話描き足さなくてはいけなくなったのでは?」と邪推したりもしたのですが、作中でしつこいくらいに連呼することによって強調されていた「心の強さ」というテーマ及び戦後日本という舞台設定に着目して考えると、あの最終回は必要なものだったのだということに気が付きました。
(それはそれとして、ブラック企業に対する解像度は低かったと思いますが)

 まず、ドリトライというのは「戦後の日本が舞台で」「拳闘(ボクシング)が題材の」「心の強さをテーマにした」漫画です。
 この時点で私が思ったのは、「戦後日本と心の強さって相性最悪では?」ということ。
 だってぶっちゃけ、日本が戦争に負けたのってそういう精神論とか根性論のせいじゃないですか。

 実際、作中でラスボス・大神夕日(主人公の父親)もそういった旨の主張をしていました。
(第17話「悟り」を参照)
(それはそれとして死にかけの娘には素直に会いに行ってやれよ)

 そんな父親に対して主人公の青空は例の名言(ド級のリトライ、ドリトライだ!)で対抗、「心の強さが違ぇんだよ!」と夕日を殴り飛ばして目を覚まさせるわけですが、打ち切りで駆け足だったので描写不足になってしまうのは仕方がないとはいえ、このままでは「結局根性論ゴリ押しで解決かよ」「親父の思想を超えられてないじゃん」と思われてしまっても仕方がありません。

 そこで、「青空の言う心の強さは夕日の言うそれとは似て非なるものである」「青空は(拳闘の強さではなく精神面で)父親を超えた」ということを明確にするために、あの最終話が必要だったのではないかと思います。

 夕日の言う「心の強さ」というのは、精神的にも肉体的にも「痛みや理不尽に耐える」というものでした。
 これはまさに戦前・戦中の日本で美徳とされていた精神そのものだと言えるでしょう。

 対して、最終話で描かれた青空流の「心の強さ」は、パワハラのような理不尽に耐えるのではなく、むしろそれに抗うことを主題にしていました。

 おそらく、連載がもっと長続きしていれば、青空が「心の強さ」を大切にしながらも、父のそれを超克し、自分なりの新しい「心の強さ」を見つけていく過程が丁寧に描かれていたのでしょう。

 ですが、与えられた猶予の短さ故に、時間を現代まで飛ばすという少々強引な手法で「主人公が父親を超える姿」を描くしかなかったのだと思います。

 とはいえ、ツッコミどころは多々ありながらも、雲母坂先生がこの作品を通じて表現したかったであろうテーマを描くために必要だったということを考えれば、「令和」は決して蛇足ではなかったと言えるのではないでしょうか。

 考察は以上になりますが、最後に一言だけ。

 ほら雲母坂! 心の強さでもう一作!

 

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