LifeWear magazine 解読 02
Jil Sanderさんの解読 01
さあて。いよいよLifeWear magazinの解読に入っていこう。
今回はユニクロに「2020年秋/冬コレクション +J」を復活させたファッション・デザイナー、ジル・サンダー(Jil Sander)さんの解読だ。
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その前に断っておきたいのだけど、わたしはジル・サンダーさんの作品をひとつも持ってないし、それどころか触ったことも、いや、実物をこの目で見たことさえない。
ならまずユニクロ行ってジルさんの作品を、せめて見てこいやー、ということかもしれない。
しかしどうもそういう気になれない。
なぜだろう?と自問してみると、もちろんジルさんの作品を所有するだけの金銭的余裕がないから、ということもあるけど、やはり衣服そのものにそういう行動を発起させられるだけの興味がないからかなあ、と思いあたる。
なら、こんなテキスト書くなやー!
だけどだけど、見るだけファン心理ってあるでしょ?
野球や将棋や麻雀や、わたしは見てるだけで面白い。
野球は小さい頃ソフトボールをしてたことがあるくらいで、その後長らくプロ野球に興味をもっていなかった。だから実にもったいないことに、長島(嶋の表記じゃないころ)さんの現役時代のパフォーマンスを生で見ていない。だけど昭和50年に広島カープが初優勝して以来、にわかにプロ野球ファンになってしまった。
将棋はほぼ誰かと指したことがない。それでも毎日のようにabemaTVで将棋中継を見ているし、毎週日曜日に放映されるNHK杯は録画して見ている。そうなったきっかけは1995年に羽生善治さんが将棋のタイトルを全冠制覇して日本中が大騒ぎになったことだ。以後にわかに将棋ファンになってしまった。
麻雀は高校生の一時期やっていたけど、やってたのはホントにその頃だけで、その後は福本伸行さんの激烈な麻雀マンガに傾倒してはいたものの、2018年に麻雀のプロリーグであるMリーグが出来たのをきっかけに、カミさんの機嫌が傾くぐらいその闘牌の様子を毎日見ている。と言っても10月〜翌3月までの半年間だけど。
4月〜10月はプロ野球観戦があるので、Mリーグはその間に視聴するようにできている。うまい!
こういうわけだから、どうにもこうにも、わたしの趣味は頭でっかちな趣向でできているのだと思う。申し訳もない。
というわけで、そこのところを容赦していただいて、ジル・サンダーさんの解読に入っていきます。
もしこれを見てくださっている方で、ジル・サンダーさんの作品に触れたことのある人、触れる予定の人、わたしこそジル・サンダーよっていう人は、その様子を教えてくださると嬉しいし面白いなあと思ってます。
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それではいきましょう!
■ジル・サンダーさんの生い立ち
1943(昭和18)年11月27日生まれ。
ドイツ北部にあるハンブルク(Hamburg)に生まれる。
ミニマリスト(minimalist)と呼ばれている。
別名"Queen of Less"。(減らす女王?)
生まれ故郷であるハンブルクのことをLifeWear magazineのインタビュー(以後「インタビュー」と言う。雑誌のp.48~p.53に掲載)の中でこう述べている(Q3参照)。
「私はハンブルクで育ちましたが、当時街にはまだ戦争の爪痕が多く残されていて、幼い頃は自然を感じることはあまりありませんでした。ただ、ハンブルクはバルト海に水運でつながっているうえに、港町なのでヴェネツィアより多い数の水路や川があります。だから私のまわりには、いつも水がありました。私にとっての自然の原体験は、移り変わる空の色と、水面に映るその反射です。大人になってから、ハンブルクからそう遠くない田園地帯に住むようになりました。見渡す限り、農場と森と草原の風景です。私は昔から、春になって新緑が勢いよく芽吹く様子が大好きです。北ドイツは風が強いので、雪雲が突然現れて景色の色彩が一変することもよくあります。また、このあたりは太陽の光が透明で明るいことで知られています。あまりにもクリアな光なので、すべてのものが透けて見えそうなほどです。この光は、生地を選ぶうえで私にとって重要な要素です。色だけでなく、布の品質にも関係してきます。ここの光の下では、ごまかしは通用しません。織り目のすべてのディテールがはっきりと見えるのです。そうやって、最高の品質のものだけが選ばれます」
『LifeWear magazine』 p.49,Q3 およびWeb上の記事https://www.uniqlo.com/jp/ja/contents/lifewear-magazine/jil-sander/
のQ3より。太字はわたし。
故郷ハンブルクとそこでの「光」の発見という、とても印象的な描写がされている。「ごまかしを許さないまばゆい光」はその後の彼女のデザイン・センスの礎《いしずえ》となったに違いない。
その後ドイツ西部の都市クレーフェルト(Krefeld)にあるクレーフェルト繊維専門学校(Krefeld School of Textiles)に進学する。
クレーフェルトは絹織物などの繊維産業で知られる都市で、彼女の生まれ故郷であるハンブルクからは直線距離で南西方向およそ330km離れている。
この学校のことを、彼女はインタビューの中で次のように述べている。
「バウハウスで教えていた人たちや元生徒の多くが、クレフェルトで教鞭をとったり、建築物を設計したり、繊維専門学校のためにパターンをデザインしたりしていました。ミース・ファン・デル・ローエも、クレフェルトのシルク産業のために素晴らしい建築物をいくつか設計しています。私が繊維専門学校に入学した当時も、バウハウス的なアプローチは強い影響力を保っていました。当然、私もバウハウスの建築に影響を受けました。フォルムから無駄をなくし、研ぎ澄まされたピュアな形を追求したいという自分の直感が、バウハウスによって裏付けられたように感じました」
『LifeWear magazine』 p.49,Q4 およびWeb上の記事https://www.uniqlo.com/jp/ja/contents/lifewear-magazine/jil-sander/
のQ7より。太字はわたし。
ここに彼女のデザインのキーとなるのであろう「フォルムから無駄をなくす」「研ぎ澄まされたピュアな形」といったことばが出てくる。
こうした彼女の直感はハンブルクの光によって形成されたのかもしれない。
そしてその彼女の直感を、それでいいのだ、と裏付けてくれたと言っているのが「バウハウス」だ。
■バウハウスとはなにか?
バウハウス(Bauhaus:「建築の家」の意)とは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間《はざま》でドイツ中央に位置するヴァイマール(Weimar)に誕生した美術学校だ。
その校風は、19世紀イギリスの詩人であり思想家でありデザイナーでもあったウィリアム・モリス(William Morris,1834-1896)の主張
「芸術は社会のニーズを満たすべきだ。形と機能の区別があってはならない」
に強く影響を受けているとされる。
ウィリアム・モリスは産業革命が発達したロンドンに生まれ育ち、産業革命のおかげで身の回りにあふれるようになった粗悪とも言える大量の工業製品を見て、批判的な立場に立つ。
「有用とも美しいとも思えないものを家の中に置いてはいけない」
『生活の美』1880
ジョン・ラスキン(John Rsukin,1819-1900)の主著『ヴェネツィアの石』
ヴェネツィア共和国崩壊後、破壊され朽ちていくばかりのヴェネツィアの建築遺産を目の当たりにしたラスキンにより、愛惜のきもちで雄大に綴られた「水の都・ヴェネツィア」の建築史。
その中の「ゴシックの本質」で、芸術(アート)と職人(クラフト)がいまだに未分化の状態にあり、創造と労働が同じ水準に置かれていて、人々が日々の労働に喜びを感じていた時代を理想としている。
に共感し、中世の美に開眼したモリスは、大量生産によってではなく、かつてのような職人による手仕事によって生み出されたモノにこそ価値があることを見出す。
そうした考えに共感するモリスの同時代人たちによる展覧会に端を発して「アーツ&クラフツ運動」がイギリスに巻き起こった。
アーツ&クラフツ運動の主張を簡単に述べると、
「芸術によって社会を近代化しよう」
ということになる。
そしてその運動は世界に広く影響を与えた。
フランスでは「アール・ヌーヴォー」、日本では柳宗悦《むねよし》(1889-1961)の「民藝運動」に、そしてドイツでは「ドイツ工作連盟」の誕生という形で。
ドイツ工作連盟はヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius)により、1907年にミュンヘンで結成された。
その理念は「いいものを工業的に作ろう」というものだった。
この考えは、製品を考案する者と生産する者との分業を生み、その前者は今日《こんにち》のインダストリアル・デザイナーの誕生につながっている。
アーツ&クラフツ運動がドイツに入ってきた当初は、その理念をどう実現するか、という点で2つの考えがあった。
1つはモリスの主張そのままに、考案する者と生産する者が同じ者であるべきだという考え。
もう1つは、規格化をすすめることでどこでも誰でも同じ物が作れるようにしようという考え。
最終的には後の考えが結論となった。良いものを規格化することで生産を工業的に行えるようにしたのだ。
そしてそのドイツ工作連盟で活動していた建築家、バルター・グロピウス(Walter Gropius)が初代校長となってバウハウスが誕生した。
バウハウスの理念は、
・大量生産と個人の芸術的見地の統一
・美学と日常生活の融合
ということであり「造形活動の最終目標は建築である」ことを宣言している。
https://bulan.co/swings/about_bauhaus/ より
これまでの考えの流れをまとめてみる。
・中世ではアート(芸術)とクラフト(工芸)が同じことであった。
・その後アートとクラフトは分断された
・産業革命により、クラフトは工業化されてしまった
・「アーツ&クラフツ運動」は工業化の流れにアートを組み入れようと主張した
・「ドイツ工作連盟」はアートとクラフトを同じ人物が担うことでアートとクラフトの融合を取り戻し、そこで生まれたデザインを規格化することで工業化しようとした
・「バウハウス」はアートとクラフトの構造を分析し、それを新しい造形として実現することで工業化に対応しようとした。またそのための模索・実験の場でもあった。
こうした模索・実験の成果として、講師としてバウハウスに参加していた、ヨハネス・イッテン(Johannes Itten)、ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)、パウル・クレー(Paku Klee)らによる作品群がある。
物から色や形を分離し、抽象化・理論化したのだ。
またこうした考えがモダンデザインの確立に貢献したとも言える。
例えるなら、バウハウスとはアートとクラフトを材料とする鍋であり、それをグツグツと煮て、新しくて美味しい料理を作り出そうとしたのだ。
こうして出来上がった料理は
・極端に単純化されたフォルム
・合理性と機能性の同居
・大量生産と個人の芸術精神の調和
といった特徴をもっていた。
その後バウハウスは頽廃《たいはい》的であるとしてナチスの弾圧にあい、1933年に閉校する。
多くの教師陣はアメリカへ亡命し、アメリカの若きデザイナー達に影響を与え、モダンデザインはその絶頂期と言われるミッドセンチュリーの流れへ向かうことになる。
▶長くなってしまったので、Jil Sanderさんの解読、次回に続きます。