0から始まる
赤瀬川原平の著書に『老人力』(1998年9月発売 筑摩書房)という本がある。
この本の趣旨は、人間の老化による能力の低下を嘆くのではなく、その"衰え"ということばが含む方向性を逆転することで、"衰え"をいい事だと捉えようという発想法にある。
ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、
「あいつもかなり老人力がついてきたな」
というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。
衰えるってダメなことだね、じゃなく、衰えるって良いことだね、と考えようということだ。
一歩間違えば揶揄《やゆ》とか皮肉の一手段として使われそうではあるな、と思う。
でも方法論として、考えとかイメージが置かれている場の思考軸を逆転することでそれまでになかった局面を目にしてみる、という手法はよく使われているし、うまく使えば新しくてすごいことを手にできるかもしれない。
数学でよくある考え方だけど、「〜がない」という状況を「"〜がない"という状況が"ある"」と捉え直すのは、老人力とほとんど同じ手法だと思う。
この手法により、「なにもない」という途方に暮れている状況が、「"なにもない"があるじゃないか」という、ちょっと希望が持てる状況に転換する。
んな、馬鹿な
でも数学は各方面で強力にこの手法を使っている。
例えば「引き算」。あれは「マイナスする」という算法を新しく定義するのではなく、「"負の数"をプラスする」と考え直すことで「足し算」という算法に「引き算」を含めることができて思考の節約になっている。またそうすることで「負の数」という新しい局面が見えてくる。
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カントール(1845-1918)が集合論を始めたとき、
「数学の本質はその自由性にある」
(『超限集合論の基礎づけ(2)』1897)
という、とても有名でわたしが大好きなことばを使った。
でも「自由」と言い得るのはその反対の「不自由」があるからこそだ。
数学が自由だとして、その数学の自由性を支える「不自由性」はどこにあるのだろう?
それは、数学という花を咲かせる土壌、「論理学」にある。
論理学における至高命題は「矛盾はその存在を許されない」ということだ。
だから数学がいくら自由だからといっても、「矛盾」を生むようなものだけは数学の世界にいられない。
つまり"矛盾を引き起こすもの"は数学の世界には"ない"のだ。
このヒリヒリするような感覚を逆手に取って、カントールは集合論を創り出す。
「なにも"ない"」=「"矛盾を引き起こすもの"がある」
この事態はこう言い換えることもできる。
"ない"というコトを"矛盾を引き起こすもの"というモノを持ってくることで具体的な表現に変換した、と。
コトよりモノを扱う方がなにかと便利なのだ。
そしてこの"矛盾を引き起こすもの"を「空集合」と定義した。
つまり「0」だ。
なにもなかった集合論という世界に、こうしてまず0が生み出された。
一旦0が存在すれば、後は「順序」という手法を使って次から次へと、数学が必要とするすべてを、いや、すべて以上を生み出すことができた。
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神による天地創造神話にも擬せられる集合論の創始に登場するこの手法には、いつ思いを寄せてもドキドキしてしまう。