今日も脳天気
その頃のボクらといったらいつもフジテレビだった。
その頃のフジテレビの深夜番組に『たほいや』というのがあって、調べてみると1993年4月から半年間の放送だったようだ。
だからここで言う、その頃というのはその頃のことだ。
番組の内容については、興味のある方は調べてもらえればいいと思う。ただその番組の出演者の中に若き日の三谷幸喜がいたことを述べておきたい。
その頃わたしが大好きだった、彼が脚本を手掛けたテレビドラマを挙げてみよう。
1994年『古畑任三郎』
1995年『王様のレストラン』
1996年『3番テーブルの客』
1997年『総理と呼ばないで』
1998年『今夜、宇宙の片隅で』
2000年『合言葉は勇気』
どれもこれも思い返すだけであの頃の汗と哀愁の匂いがプンプンとしてきそうだ。
これらの番組はVHSに録画され、わたしによって何度も何度も見返されていた。
なぜそんなことをしていたのか?と問われれば、面白かったから、としか言いようがない。
ただ、後から振り返ってみると、ただ面白可笑しかっただけじゃなかったことに気がつく。
中毒のように見返してたその理由を今一度問い直すと、「心を打たれた」ことに思い当たるのだ。
しかも、スカッと一発ではなく、コツコツと打たれている。あるいはシミジミと打たれている。そうしていつの間にか大量得点を許しているわけで、気がつけばわたしの目からはボウボウと涙が流れ落ちているのだ。
ではどんな風に「心を打たれて」いたのか?
少し例を挙げてみよう。
『古畑任三郎』第3シリーズ第5話「古い友人に会う」から。
物語の最後、若い妻の不倫が世間に知れ渡ることによるマスコミの騒ぎを想像しそれを苦にして自殺しようとする売れっ子作家である古畑(田村正和)の古い友人(津川雅彦)を古畑が説得する場面。
友人「全てを失うことは耐えられない」
古畑「また一からやり直せばいいじゃないですか」
友人「俺たちはいくつになったと思っているんだ。もう・・・」
古畑「とんでもない。まだ始まったばかりです。いくらでもやり直せます。よろしいですか。よろしいですか。たとえ、たとえですねえ、明日死ぬとしても、やり直しちゃ行けないって誰が決めたんですかあ?誰が決めたんですか?・・・まだまだこれからです」
そしてもうひとつ。『王様のレストラン』第9話から。
詐欺に引っかかり困窮する「ベル・エキップ」(ドラマの舞台となるレストラン。「良き友」の意)のディレクトール・範朝《のりとも》(西村雅彦)はついに店の売り上げにまで手を付け、さらに店の権利書を担保に借金をしようとする。しかしそこを従業員達に見つかってしまい、彼は店を去ることに。しかしオーナーである弟(筒井道隆)に引き留められ、その場ではそれを了承する。だがその夜彼はこっそり逃げようとする。そこをドラマの主人公であるギャルソン・千石《せんごく》(松本幸四郎)に見つかる。その時の千石のセリフ。
千石「どこへ、行かれるんです?」
範朝「ひよこたちのことは頼んだ。えさのやり方、書いといた」
千石「逃げる、おつもりですか?」
範朝「これ以上弟に迷惑は掛けられない」
千石「弟さんの気持ちを、大事にしてあげてください。もし本当に申し訳ないと思われるのなら、あなたはここに残るべきです。そして、ディレクトールとしての職務を全うすべきです。確かに、ここに残る方が辛い。しかし、あなたにとっての罪滅ぼしはそれ以外にはない。どうか、立派なディレクトールとして、オーナーを補佐してやってください」
範朝「俺には無理だ。足を引っ張るだけだ」
千石「いや、そんなことはない。あなたにも偉大なオーナー・シェフの血は流れています。自分を信じるんです。範朝さん。あなた自身が信じてやれなくて、いったい誰が信じるんです?」
この2つの例示に共通しているのはなんだろう?
2つともに、説得される役をしている役者名が「雅彦」だということ?
そうじゃなくて。
両方のセリフとも、失意の人物を励まそうとして出てきたセリフであって、その励ましは次のような論理でなされている。
その失意の原因は実はその人自身の心にあると指摘する。
であるなら、意識の持ち方ひとつで世界が開けるのではないか、と暗示する。
この点を、作家というより思想家というか、あのコリン・ウィルソン(Colin Wilson 1931-2013、『アウトサイダー』他)も似たようなことを言っている。
これまでにつねに私の興味をそそってきたのは、人間の意識にまつわるひとつの単純なパラドックスであった。人間は環境や偶然のいいなりになっており、そのため、快い経験には「心が浮きたち」、不快な経験をすると「心が沈む」ように思われる。ところが、より深い意味では、人間は自分の意識を自分でコントロールしている。意識の強烈度を意のままに増大することができるのだ。これが私のいうパラドックスにほかならない。
ロマン派の詩人たちは自殺をしたり、悲惨な生活や意気消沈が原因で生じた結核を病んで死ぬ者が続出したのだ。
だが、ロマン派の詩人たちの生涯を調べてみると、ひとつのことがはっきりした。彼らはほとんどが弱虫で、あまりにも自己憐憫などの消極的な感情にふける傾向が強かったのである。
『フランケンシュタインの城』(中村保男訳)
これらに通底する考えは、
世界はあなたのもの
ということだと思う。
何の根拠も、何の保証もなく、ただ自分を信じること。自分で自分を支える覚悟を、 まるで空中から取り出すようにヒョイと腹に据えること。
それが生きる要諦だ、とさりげなく教えてくれる。だから「心を打たれる」。
でもそれができるって、ある意味脳天気でなくちゃ難しいのかもしれない?
PS
そう言えば思い出した。なにかのビデオで星野源が言っていた。
「これ、みーんな、おれの女」