自己紹介note(2022.1.22更新)
少しずつフォローしてくださる方が増えてきたので自己紹介をしてみたいと思います。
現在の私の特徴は、以下です。
「人見知り・心配性・末っ子気質」
「冒険という言葉に目がない」
「0か100のようなところがある」
【大学時代からの人生の変化】
大学に入る前と後で、私の人生は180度変わりました。
大学前の様子は別記事にしたので、この自己紹介では大学入学後の変容についてのダイジェストを。
人前で話すことと小さい子どもが大の苦手だったはずなのに、高校のだいすきな先生の一言であっさり進路変更したあの瞬間から、私の新しい人生は始まったような気がします。
大学は初等教育と理科教育を専門にできるところを志望。入学後は大学の隣にある社会教育施設である人物と出会い、PA(Project Adventure)という冒険教育の世界に足を踏み入れました。
PAは将来の学級経営で必ず役立つ!という確信の下、愉快なおじさんたちに紛れて指導者養成講座も受講。その後は社会教育施設の敷地内に設置されたエレメントを活用した小学生~社会人対象のチームビルディング研修の講師も務めさせてもらいました。
長期休みには子ども向け中長期のキャンプ等の企画運営を担当したり、県下の小学5年生が毎年行う4~5泊ほどの体験活動行事「自然学校」の講師を務めたりもしました。
また、アンテナの感度を高めたい,教育以外の分野にも触れたいという思いから、バックパックを担いで一人旅にどんどん出かけました。
よく学生生活と両立させていたな、と思う読者の方もおられるかもしれません。両立は、恥ずかしながら全くできていませんでした。
授業は、単位を落とさないギリギリの出席数を死守し、それ以外の時間はすべてを自己投資の時間としました。当然のごとく、成績はとんでもないことになりました。
冒険教育に触れることで自走式エンジンを搭載した私は居ても立っても居られない気分になり、休学して留学することを志願。
行先は、「その国言葉すら全然知らないので、フロンティアに飛び込むことで自分を成長させてみたい」というなんとも若さ溢れる理由(?)で中国を選択。…実際は、英語圏への留学は費用が掛かりすぎるので早々に除外しざるを得なかったし、仲良くしていた中国からの留学生たちの影響も大きかったように思います。
中国人って「赤いツルツルの生地の服を着て、キョンシーみたいな帽子をかぶり、体の前で交差させた腕を左右の裾に入れている」というイメージしか持っていませんでした。
本当に「ニーハオ」しか知らないレベルのまま現地に飛び込ンダのですが、留学先の広州を拠点に現地の人と戯れまくったことで、3か月でネイティブの日常会話の聞き取りはほぼマスター、6か月経った頃には、中国人から頻繁に台湾人と間違えられるほどまで中国語が上達しました。
結局1年間しかいなかった中国ですが、JIAの活動で参加したハンセン病快復者村での長期ワークキャンプをはじめ、ここに書ききれないほどの多くの大切なことを教えてもらいました。
帰国したころには同級生はほとんどが採用試験受験済み・結果待ち状態。
1年のビハインドこそ取りましたが、一つ下の学年に紛れての授業や教育実習を何とかやり遂げました(ちなみに、帰国後はさすがにあまりサボらなかった笑)。
4回生の5月。そろそろ教員採用試験の願書の準備を始める時期です。
本来は校種を「小学校」で受験する予定だったのですが、教科の中でも理科が好きで尚且つ挑戦癖がついていた当時の私は、願書の校種を選択する欄で「中高理科」にぐるりと丸印を付けたのでした。『神戸市』1本で、勝負!
校種を変更するということは、受験勉強の内容もごっそり変わるということです。
中学校理科を受けるためには、物化生地の4科目をセンター試験で8~9割取れる程度まで理解力を伸ばす必要がありました。つまり、「教職教養」と「一般教養」、「小論文」に合わせ「専門教科(物理・化学・地学・生物)」の準備が必要となり、さらに願書には小学校との併願受験にも丸印をしたエンジン全開の私は、追加で「小学校全科」と「実技(なわとび・水泳)」を勉強しなければならなくなりました。
誰から強要されたことでもありません。すべて、自分で決めたことです。人生は運命ではなく選択であるという言葉を大切にしてきた私らしい選択だったな、と今となれば思います。
そうと決めた時から本番の7月末までの2か月半は、おそらく人生で一番勉強をしました。授業とバイト以外の時間はずっとゼミ室に閉じこもり、文字通り、起きてから寝るまで勉強勉強勉強・・・これまで勉強をしてこなかったのが悪いのですが、本当に驚くほど知識がない自分に毎日絶望しっぱなし。
過度な勉強で廊下を真っ直ぐ歩けなってしまったことに加え、瞼の痙攣、さらに寝ていても世界がグルグル回る現象に悩まされ病院行き。
とにかく本当に命がけの受験勉強でした。(やり過ぎ)
そして教員採用試験当日。
1次選考では、「教職教養」「一般教養」の筆記試験、集団面接。
2次選考では、「小学校全科」「中高理科」の筆記試験、「なわとび(あやとび、二重跳び)・水泳(クロール、背泳ぎ)」の実技試験、個人面接。
不安とプレッシャーの中、体力と気力を使い切り、すべてが終わったころには干物みたいになりました。
合格発表当日。
市役所の1階に張り出されたA4の紙に自分の番号を見つけたときは震えるほど嬉しくて、普段はつっけんどんな態度でしかかかわらないおかんと肩を叩きあって喜びました。
【教員時代】
初任校で1年目(1年生副担任)、2年目(1年生担任)、3年目(3年生担任)と経験しました。
数人の特にイケてる先生方との出会いもあり、途中鬱にもなりましたが、基本的にやりたいようにやらせてもらえました。といっても特殊事情が多かったこの学校、純粋に教師の仕事だけでは収まらず、しかも担任をしていた時は「学級通信を毎日発行」というまたもや勝手な目標を立て実践していたこともあり、日付が変わって帰宅することがフツーになっていました。
愛情をかけていただけに生徒たちがとってもかわいく思え(いや実際かわいかったよ?)、寝ても覚めても彼らのことを考える日々でした。休日は、早く学校が始まってほしいと願うほど。
理科の授業も「毎回の授業で指導案を書く」を3年間実践。次第に自己流の授業法も体得できました。
【JICA海外協力隊】
中学時代から「いつか参加しよう」と決めていたJICA海外協力隊。初任校3年目の時に応募をしました。
こちらも詳細はいつか記事に書くとして、「小学校教諭」として合格をいただきました。女子バレー部を引率していっていた中央体育館の試合間、合格発表をスマホで見て大興奮。当時試合の数日前にギックリ腰を患い腰が90度ほど曲がっていましたが、自分の数字が見つかった時にはうれしくて背筋ピンッ!となりました。
後日実家に届いた合格通知の中に同封されていた紙で、赴任地がフィリピンのネグロス島ということも判明しました。
翌4月からは福島県にある二本松青年海外協力隊訓練所(通称:NTC)での65日間の訓練と最終試験を経て「青年海外協力隊候補生」から無事に『青年海外協力隊』に。地元での表敬訪問等をこなし、7月末、バラエティに富み過ぎる7人の同期と共にフィリピンに向け出発しました。
フィリピンではまず現地語(私の場合はセブアノ語)のトレーニングを受けました。約3週間、フィリピン大学内の宿泊施設に泊まり込みで特訓をします。その後、8人ぞれぞれは自分の任地へ飛びました。
私のフィリピンでの活動を書き始めると、本1冊分になるので、ここでは割愛します。まぁ、ほんとにいろんなことがありました。いいことも、よくないことも。でも、ぜーーんぶひっくるめて、本当によい2年間でした。JOCVとしての活動も、現地での生活も、恋愛も。
ちなみに、現地で仲良くなった人々とは未だに繋がっていて、帰国してもう8年ほど経ちますが、今でも週に1度はFacebookでメッセージのやり取りをしています。フィリピン人はFacebookが大好きです!
【帰国後】
帰国後はフィリピンの任地とは打って変わって神戸の繁華街に近い町の公立中学校で勤務が始まりました。一学年5~6クラスある中規模の学校。
1年生から担任をさせてもらい、3年生まで持ち上がりました。自分の経験や思いをどんどん形に変えながら学級経営と教科授業に取り組みました。主任の先生をはじめ学年団の先生方も面白い方が多く、そして何より目に入れても痛くないかわいい生徒たちに支えられ、本当に充実した3年間を過ごしました。
このときも「毎日学級通信」の独自文化は続いており、教師を辞めた今でも、しんどいときは時々見返しています。そうすると当時の教室できこえていた数々の爆笑の声が蘇るんですね。当然教師として苦しい場面もありはしましたが、今振り返ってもあの3年間はかなり貴重でした。受け持った生徒の背中を押しまくった3年間でしたが、同時にそれは、自分の背中を押す3年間でもありました。
自走式エンジンは既に備えていた私でしたが、この中学校で彼らとともに過ごす間に、その後の人生をさらに力強く切り拓くための高品質のエンジンオイルを手に入れることができたのです。
彼らが受験生になった年、在外教育施設派遣の試験を受験しました。市や県からの推薦を受けるための面接や志望理由書をはじめとしたドキュメントの準備と、3年担任をしながらだったこともありかなりバタバタしましたが、無事に文科省による最終試験までこぎつけることに成功しました。
こちらもまた詳細はいつか書くとしますが、実は私、この最終面接本番で面接官とケンカしてしまいました。(やってしまった・・・)と非常に落ち込み、合格者だけに通知されるという通知も待てど暮らせど来ませんでした。
ケンカ面接から5か月ほど経過した12月。
校内放送で校長室に呼び出され、何事かと思ったらなんと、合格通知が届いたとのこと。そして同時に発表された行先は「ブエノスアイレス」でした。
ブエノスアイレス・・・アルゼンチン?!
ずっと応援してくれていた校長にお礼を告げ、校舎の陰からすぐにおかんに連絡。おかんは、声を震わせながら「おめでとう」といってくれました。
学級経営、学級通信、教科授業、行事、部活動指導、進路指導、生徒指導、思春期悩み相談、家庭訪問、定期考査の作成、成績処理・・・日々の業務に「自分の進路の準備」も加わり、24時間では全く足りない毎日を刻んでいきました。
【在外教育施設派遣時代】
年明けは東京での1週間の在外派遣教員向け研修もありました。中南米派遣の教員は9割以上が男性、同期となった中南米派遣女性教員の面々はかなり面白い人たちばかり。特に、偶然宿泊先が同室となったマナウス(ブラジル)派遣、サンパウロ(ブラジル)派遣、サンホセ(コスタリカ)派遣の先生方とは一瞬で意気投合しました。結局派遣期間中も4人で連絡を取り合い支え合い、互いの任地に遊びに行ったりして仲良くしてもらいました。
3月末。日本からアメリカ経由で飛行機に乗ること約30時間(途中トラブルがあったので実際は40時間ほどかかりました)。
ブエノスアイレスに到着しました。念願の、初南米です。
ブエノスアイレスの日本人学校は小中学生合わせても30人ほどの超小規模校。閑静な住宅街に佇むこの学校で、子どもたちと共に悠々と過ごしました。
担任としては小4,中2、小5を経験。それぞれの学年で、そのクラスでしかできない取り組みにチャレンジできたかなと思います。神戸の小中学生とはどこか雰囲気の違う子どもたちや保護者の方々とのやりとりもまた非常におもしろく、学びにあふれた3年間を過ごすことができました。
3日以上ある休みは必ずと言っていいほどアルゼンチン国内、周辺中南米諸国へと旅に出かけました。どの旅もよかったのですが特に、ジャングル地帯での滞在でインスパイアされまくり、この経験が今後の人生にがっつり影響を与えることになったのです。
在外派遣時代の詳細に関しても、またいつか別記事で。
【帰国後②】
帰国後はまた神戸市の今度は少し田舎にある中学校に赴任。こちらの学校は1年だけ、しかもポーンと3年生に配属となりました。コロナの影響で年中マスクを着けていた影響もあり、生徒の素顔も地域の特徴もこの学校の校歌も知らないまま1年を過ごしました。
毎日の通勤が地獄過ぎて大きなストレスとなりました。家~バス停徒歩10分、バス25分乗車、地下鉄40分、バス10分、徒歩5分。接続がスムースにいくはずもなく毎日6時前に家を出て、学校につく頃には8時近くになっていました。職員室では“出勤がちょっと遅めの先生”という認識だったのではと思います。
帰りもバスの本数が限られるので早めに退勤。会議などで長引いたときは同僚の先生に気を遣ってもらい、駅まで送ってもらったこともありました。
でも、せっかくいろんな経験を積んで現場に戻ってきたのだからという思いでたぶん自分しかできないだろうと思える授業づくりを試みました。多くはないにしても数人の生徒と波長が合い、彼らとは昼休みや放課後などの時間に少し話をすることができました。
この1年は、通勤時間が長かったことも関係し、自分の今後を考える好機となりました。
で、はっきりと分かったんです。
私はやっぱり、中南米の自然が好きだ!ということ。
そう確信してからは、具体的にキャリアプランを変更しよう、と具体的に考えるようになりました。
そして教師を辞め、たどり着いたのが今のポジションです。
※在籍中なので詳細は今は書けません※
To be continued・・・
【好きなこと】
中南米ジャングル
野生生物(特に鳥類と両生類)
フロンティアの冒険
ガウチョと乗馬
おばあちゃんとの岸和田城周回散歩
弟子入り及び修行
昭和の漫画
語学学習
キャッチボール
水切り
吉本新喜劇
竹竿での釣り
海岸で貝殻さがし
薪割り
硬筆
古民家
カメラ
旅
【苦手なこと】
ペットショップ
化粧品コーナー
マイルやポイントの管理
カラオケ
保険の管理
年末調整
酒
タバコ
着地点の見えない話をきくこと
長風呂
グラスボート
人前で話すこと
急な予定変更
建前トーク
止めどないLINE、インスタDM、FBメッセンジャー
偏見
恋愛
【訪問国】
カナダ
中国
香港
マカオ
タイ
韓国
台湾
フィリピン
マレーシア
フィンランド
ネパール
ベトナム
キューバ
アルゼンチン
ウルグアイ
エクアドル
ペルー
コスタリカ
チリ
コロンビア
ボリビア
ブラジル
スリランカ
(計23 2023年9月現在…太字は半年以上の長期滞在)
【チャレンジ】
・大学まで自転車通学(往復65km)
・兵庫県縦断徒歩旅
・1時間耐久腹筋
・海南島自転車一周旅(自転車故障につき途中からウルルン滞在記)
・城崎温泉~鳥取砂丘1日耐久徒歩旅
・神戸市北区から岸和田徒歩旅
・沖縄県縦断徒歩
・韓国縦断自転車旅
・船で中国 ~西安からウイグルまで孤独列車旅~
・桜島一周徒歩旅
【目標】
南米ジャングルを通して日本と南米の橋渡しをすること🦥
思いついたらまた追記したいと思います。
どうぞよろしくお願いします!