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煙草

家に帰って来た。カバンを開けると赤マルとGUCCIの香水の香りがした。アフターピルの箱を捨てる。ジャケットを脱ぎ散らかして私は布団に横になった。


猛烈にラム酒が飲みたい。今すぐ酔ってしまって寝たい。しかしラムコークには寒すぎるし、ホットミルクにラムを垂らすには暑すぎる。


今すぐSGに飲みに行きたい。吸ったこともないくせに煙草か葉巻が無性に吸いたくなるようなそんな日だった。


昨日、死ぬほど馬鹿にしていたデリヘルに落ちた。いや落ちたわけではないが「お前は堅くて、真面目で、柔軟性がなくてヘルスに向いてない」そんな風に言われた。顔も性格も内勤の好みじゃなかっただけだろうが、そんなことはわかっているが。


頭は悪いけど勘はいい内勤だった。正直耳が痛かった。私に人間として足りないものを投げつけてくる面接だった。ここで働くならこいつの趣味講習に付き合わなきゃいけない。私はいちプロとして動揺せずにいられるだろうか。まあこんなことを考えているから「向いてない」なんて言われるのか。


その日は2時間かけて渋谷から新宿まで歩いた。雨が降っていたが、傘を差す気力もなかった。新宿はキラキラしてていつでも綺麗だなとか、そんな馬鹿なことを考えながら家に辿りつき、泥のような眠りについた。その翌日の彼からのお誘いだった。


彼ははっきり言ってスカウトの仕事とセックスしかできない、味気ない男だ。全ての男は消耗品だと村上龍は言うけど、まさに消耗されるために生まれて来たような男だ。本人は自覚していないかもしれないが。ただ私はそんなことを敢えて言うほど馬鹿じゃない。それに彼も敢えて指摘しなきゃいけないほど馬鹿でもない。憎たらしいことに。


私は、今日「馬鹿でうぶな19歳の女の子」を演じるためだけに彼の家に行った。抱かれたかったというよりは頭の良いふりをするのに疲れてしまった。真面目に生きてる。けど良いことなんて何もないから、ちょっと不真面目なふりがしたかったのだ。バチは当たらないだろう。


だけど彼の部屋を見た時にそんな気持ちは吹き飛んでしまった。強烈な煙草の香り。無造作に置かれた調味料と香水。同居人たちと一緒に寝ているであろう寝室。


こいつは私が到底敵わないくらいの不真面目だ。


初めて彼を見た時、押し寄せてくる沢山の現在に次から次へと器用に飛び乗れる不思議な人だなと思った。ぼんやり、私はこの人とセックスすることになるかもなと思った。私のこの類の勘はよく当たる。


私はそういう器用な生き方は出来ない。スケジュール帳に書いた以外の行動ができない。私の今日のスケジュールはすっかり吹き飛んだ。私はすっかり彼のペースに飲まれてしまった。悔しい。けど、何もできない。今日の私の予定を崩すなよ。誰にでもキスする口で安易に可愛いって言うなよ。私よりずっと馬鹿で愚かで情趣を解さないくせに。今日の主役は私なんだよ。


私の唇を割って入って来た彼の舌は美味しい煙草の味がした。


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