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香水

表側矯正中の私に、とうとう彼が在籍を見つけた。新宿の結構な人気店で、私は居心地のいい歌舞伎町で働けることになった。お礼に彼に香水を買ってあげる事にした。前に欲しがっていたのだ。本当は15ml 3000円のreplicaを買ってあげるつもりだったのに、表参道を歩いていたら、いつの間にか予算は私のデリヘル1本の給料より多くなっていた。まあ一回セックスしたら優にこの位払えるからいいや。どうせお金なんてあったって怖くて自分のためには使えないし。

今日、彼に会った。彼は香水を今日渡すと言った事をちゃんと覚えていて、何もつけないで私を迎えにきた。そのせいだろうか、彼からはいつもより濃く煙草の香りがした。

もう私はこの街とマルボロの香りを分けて考えられないと思う。ずっと馴染みのない場所だったのに、3回来ただけで思い出深い場所になってしまった。私はまたいつかこの街に彼とは関係なく来るかもしれないけど、多分きっとその時には柄にもなく煙草でも吸うんだろうか。

いつもの壁が黒ずんだ彼の家にやって来た。お手洗いから出ると、彼は私のあげた香水を身に纏っていた。煙草と混ざり合ったその官能的な香りと、自分が選んだ香水を身に付けた男にこれから抱かれるという事実に、くらっときてしまった。いつものように膝の上に乗る。もう彼は私の弱いところはだいたい知り尽くしてしまっていて、首に口付けされた時には思わず声が漏れた。照れ隠しに彼の胸に顔を押し付けるとまた香水の香りがする。情報過多で気が狂いそうだ。

そこからはあっというまだった。あっというまにベットに押し倒され、あっという間に終わってしまった。気持ちよかったけど、なんだか楽しみにしていたものが終わってしまった感覚が、ちょっぴり残念だった。ふと気が付くと首にキスマークがついている。明日初出勤の自分の商品にキスマークをつけてしまう彼は、お金がなかろうとなんだろうと生きていく自信もあるんだろうし、何よりも私が毎日あくせく生きている人生そのものが、彼にとっては「余暇」なんだろうなと思って笑ってしまった。

事後に煙草を吸って担当の女の子たちに返信をしている彼を見ながらふと、「こいつもおじさんになるのかなあ」と思った。彼はおばあちゃんが送ってくれたというおやきを出してくれた。高校の合宿の帰りに買ったおやきを思い出したけど、それよりちょっぴり味が薄かった。私も塩分を気にしなきゃいけない年齢になりつつあるんだろうか。

今日は早くに彼の同居人が帰って来てしまうらしい。しょうがないから二人で散歩に出掛けた。早めの夕食を借金で首が回っていない彼に奢り、二人でタピオカを飲んだ。それでも時間が余ってしまう。

彼はふと「この街のソープでも見てくか」と私に尋ねた。彼は当然だけど住んでるこの街の歓楽街が一番詳しい。私も場末を歩くのは好きだし、どうせ家に帰ってもすることなんてないから、是非にと案内をお願いした。

彼はやはり職業柄詳しい、お店をひと目見るだけで何もかもを話してくれる。風俗店を解説して回る彼はちょっと得意げで、それもそれで愛らしいな、なんて思った。全然平和な色じゃないネオンの中で、時間の流れ方だけは平和だった。たわいもない話をする。

「私、夜職も昼職もできるようになりたいんだあ」「それ俺じゃん」「とりあえず君よりも高いレベルに到達したいかな、特に昼職は。」「学歴でゴリ押しすれば全然それだけで俺よりいいとこ行けるから大丈夫、」「そんな親に突っ込まれた資本で得た称号で成り上がったってしょうがないでしょう、私は君みたいに地頭も良くないし、実は怠惰だからさ。」

なんで自分が彼とセックスしたのかわかった気がした。私は彼に敬意を払っている。私は彼のように現在だけを生きる勇気も、ある瞬間で何もかもを手放す勇気もない。私という人間は私が今まで地道に積み上げて来た努力そのもので形成されている。私には「がんばってきた」という事実以外、何もない。

あたりはすっかり夕方になりやがて暗くなって、家に帰る時間が来た。

彼が駅まで送ってくれる。帰らなくちゃいけない。それまでゆっくり流れていた時間が堰を切ったように私のところへ押し寄せて来た。昼職の予習のことや、明日の初出勤の前に写メ日記を書かなきゃいけないことなんかが頭の中をぐるぐる回って、目の前の彼の姿が霞んで見える。

ふと怖くなって、改札の前で彼に抱きついた。当然のようにもう香水の匂いはしない。

私は執着が強い。私が積み上げて来たものが時間に揉まれて流れ去ってしまうのが怖い。私は永遠に19歳ではいられないし、この人も永遠に25歳ではない。綺麗な香水の香りは消えゆくし、風のようにやって来たこの人は風のようにきっと消える。今この瞬間全てが完璧なのに、どうして何もかも終わってしまうんだろう。

明日の朝にはどうせ全部忘れてけろっとしている。そんなことはわかっているけど。

唐突に泣きそうになった自分に戸惑いながら彼に手を振る。ここからまた忙しくなるから、多分、もうしばらくこの街には来ない。

19歳の遅い夏が、なんだか終わった気がした。




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