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Canvas.
親と訣別をして、家を出た。私は母の人間臭さが受け入れられなかったし、母は私の生き急ぎ方を到底、『母』であるがゆえに余計、理解できなかった。
始まりはちょっとしたすれ違いで、それは本当にたぶんちょっとしたことで、でも私と母にとってはあまりに決定的で、だから私は母を、私にとっては帰らぬ人にすることにした。私がこの世で最も愛した筈の人間は、最も認めて欲しかった筈の人間は、跡形もなくどこかへ消えていってしまった。私は紛れもなく、あなたになりたくて生きていたのに。
こうして私の人生は、振り出しに戻った。描き途中の絵は、白いジェッソで塗りつぶされた。
真っ白なキャンバスを胸に抱えて、この3カ月必死に生きた。あんなに大好きだった友達は、私が愛し切れなかったせいで、この手を離れていった。ストレートで上がってきた大学にも半年行けなかった。親元にいたら諦めなくて済んだ大事なものを、たくさん手放さざるを得なかった。でも大丈夫、諦めるのは得意だった。
この半年、たくさんの他者に生かされてきたことは事実で、でもわたしはひとりぼっちだった。明日のご飯も保障されていないような状況で、友情も信頼もクソもない。
自分自身の人権を削るような働き方をしていた私に新宿のホテル街で声を掛けてきたのは彼だった。
月収5万円のスカウトマン。身分証なし。そんな社会の底辺のような生き方をしている彼は、いつも貼り付けたような笑顔を身に纏っている。彼の香水からはどこか諦観と悟りの香りがして、それは彼自身も一緒だった。
彼には執着がない。それは歌舞伎町の人間にありがちな一種の型である。彼と初めて飲んだ時から、きっと彼には、執着を捨てねばならなかった若い時代があったのだろうと思った。大学を中退した後、3年壁と天井を見つめて酒を飲んでいた、それでも「人生は面白い方がいい」と言ってスカウトという反社になった彼は、生きることに誠実になれないようにさせられてしまった、そうなんだろうけれども、不思議と悲壮感はなかった。
譲れないもののない彼は、それでいて意外と静かに自身と他者を観察しており、きちんとものが喋れる、堕落論を読んでいるような男だった。彼は、私の傷を舐めてくれる都合の良い男であり、時には私が自分の思考を整理するのを手伝ってくれる、良いカウンセラーであった。付き合いはいい癖に、絶対に面倒ごとにならないこの距離感が、たまらなく私を安心させた。
場末のホテルでいびきをかく彼を眺めながら、ふと自分は不誠実な彼の生き方をどれだけ羨望しているかに気づいた。彼曰く、私は「病的に自分の心を監視している」。どれだけ垢抜けても、どれだけ彼と酒を飲んでも、どれだけ自分の中のキャンバスを粗大ゴミに出したくても、結局私の生き方は真面目すぎるのだ。この絵を描き続ける以外の選択肢を、きっと私は私に許せない。
勝手に彼のセブンスターを拝借する。彼に憧れてしまう自分自身の若さと危うさに若干怯えつつも、この人との恋と引き換えに私は自分の人生を売ったりはできないんだろうなあと、苦笑しながら煙を吐き出した。