自己肯定感は胎内に置いてきた
ということに、気付いてしまった。
自己肯定感とはなんぞやって話から始めると長くなるし、定義は人それぞれだと思うので割愛。
私は「自分を大切にメンテナンスして、常に最良でいられる、且つメンテナンスの時間も楽しめる状態」だと捉えている。
ちょっと前まで自己肯定感は高いほうだと思っていた。飛び抜けて美人なわけでもなく、どちらかというと外見コンプレックスの塊だけど、それ故にメンテナンスも頑張っていた。
頑張れていたのは、バンドに通っている中で少しでも可愛いと思われたい一心だった。実際、いちばん必死だったバンギャ時代の私は(若いこともあるけど)結構可愛い。「私がいちばん可愛いだろうがよ!」という気迫がすごい。当時はライブの前にまつエクのメンテナンスに行ったり、新しい服を買ったり、とにかくキラキラした自分を作り上げることに熱心だった。そういう自分でないと、会いに行く権利はないとすら思っていた。
バンギャ活動から離れたら、ぱったりとそれらをやめてしまった。
彼氏ができて、それなりに充実した日々を送っていた。ショートヘアが好きだと彼が言ったから、ウエストあたりまでのばしていた茶髪を黒髪ショートにした。消臭剤のパッケージみたいな派手な花柄ワンピースが似合わなくなった。全部手放した。「何もしていなくても可愛い」と言ってくれる人がいた。それはとても幸せなことで、ふわふわの毛布にくるまれているような時間だった。
でも、心のどこかで「なんか、つまんなくなっちゃったな、私」と思っていた。
やがて、彼氏と別れた。かといって何かが変わることはなく、クローゼットには無難な服ばかり並んでいる。
これといった予定のない毎日を送る私に、特別な洋服は必要ない。
そのため、急遽行くことにしてしまったSixTONESのコンサートには何を着ていこうかと家中をひっくり返して考えた。服を買ってから会場へ向かおうかとまで思っていた。
なんとか手持ちの服で「それっぽい恰好」を作り出し、いつもより丁寧にメイクをして出掛けた。
コンサートから数日が経ち、また引きこもりの日常に戻った私は気付いてしまった。
何かに与えてもらうキラキラを浴びていないと、自己肯定感が保てない人間なんだ、と。自分が放つキラキラだと思っていたものは、与えてもらったものの反射だったんだ、と。
虚しくなった。悲しくなった。
私の自己肯定感って、自分で作ったものじゃなかったんだ。
目が眩むほど強烈で痛いくらいの刺激のなかにいないと、ダメになっちゃうのか。結局、穏やかには生きられないんだ。
自己肯定感を失った私の日常は薄暗くだらだらと、重い足取りで過ぎていく。
バサバサのまつエクに巻き髪、ショッキングピンクの服を着た過去の自分が眩しい。ごめんね、こんな未来で。
穏やかに生きられなくてもいいから、またあんな自分に戻りたい。偽物で構わないから、自己肯定感って名前のアクセサリーで飾り立てて街を走り抜けたい。