論文を読む『夫婦別姓:日本における結婚と姓名変更の政策について』
――名前という、人の一生に関わるものに対して、自分の名前を自分自身で選ぶ権利=自己命名権を、正当に、一人ひとりの男女が手に入れること。それこそが選択的夫婦別姓の議論における中心的な意味である――
自己命名権に関連する論文を読んでいきます。今回は――
マーハ ジョン C.(国際基督教大学)「夫婦別姓 : 日本における結婚と姓名変更の政策について(<特集>日本の言語問題)」、社会言語科学2 巻 (1999-2000) 1 号(1999):25-36
Maher, John Christopher. "Fufu Bessei: Marriage and Change-Name Policy in Japan (< Special Issue> Language Problems of Japan)." The Japanese Journal of Language in Society 2.1 (1999): 25-36.
1999年、つまり今から約25年前の論文ですが、非常に示唆に富む内容です。「名前」の意味について考える上で重要な記載があります。以下、強調は筆者によるものです。
「結婚によって姓名を変更する」=「人間関係をもう一度最初から新たな形で規定し直す手段」と述べられています。これを言い換えれば、「名前は、人間関係を表すための社会的手段である」ということになるでしょう。
この論文ではさらに、天地創造神話において必ず「「命名」という神聖なる行為」が存在していることを指摘します。命名は何ものかを新たに生み出すものだというのです。
論文では続いて、夫婦別姓制度を導入することに反対する人の考え方を提示します。
夫婦別姓に反対する人たちにとって、改姓は「結婚相手への忠誠の印」「新しい共同体を形成したことを示すシンボル」「結婚を真面目に考えていることの何よりの証明」であり、「家庭生活に欠かすことのできない心理的な調和や相互の責任感を与えるものである」ということになる――と示されています。
たしかに、このような考え方にとらわれている人たちにとって、結婚したのに改姓を受け入れないというのは「単に自分のことしか考えない個人主義の現れ」と見えるのも仕方のないことかもしれません。
しかし、ここには重大な一文が潜んでいます。「それまで自分の姓が気に入らなかったりそれによって嫌な思いをさせられてきた人にとっては,より良い姓に変更する思ってみなかったチャンスになる」――つまり自分の姓を捨てたい人が《捨てる権利》を行使する希有なチャンスがあるということを示しています。
つまり、自己命名権の一つとして「姓を変えることを目的として結婚する」という人がいたとしても、「選択的夫婦別姓に反対する人」はそれに反対できない(=自己命名権を一部認めざるを得ない)はずです。
では、夫婦別姓に賛成する人たちの考えはどうでしょうか。
この論文では女性が改姓するのが当然という論調で書かれていますが、実際に2021年の時点でも婚姻届を出したうちの95%が「女性が改姓した」というデータがありますので、状況は変わっていないといえます(男性でも改姓できる、というのは、できるかできないかでいえばできるというだけの話であって、実際には改姓をするのがほとんど女性であるという状況には変わりありません)。
さて、「夫婦同姓にすることが自分の存在の根幹を失わせるものに思える」「社会から名前を変えることを強制されることへの不快感」「自分のそれまでの人生を否定することになる」「夫の家族に取り込まれてしまうように感じる人もいる」「新しい姓への違和感」に加えて、自分の婚姻ステータスを強制的に公表させられるといったデメリットがあることが明示されています。これらは果たして、「単に自分のことしか考えない個人主義の現れ」と切り捨てていいものなのでしょうか。いや、現在の個人情報保護の流れからいえば、この論文が書かれた1999年よりも、はるかに重視されなければならないことのはずです。
ここで重大なのは、夫婦別姓賛成派と反対派の意見の立場がまったく異なるということです。社会の立場に立って「結婚したら改姓しないのはおかしい。しないのは個人主義」と主張する人たちと、個々のアイデンティティーの立場に立って「自己決定権が侵害されている」と主張する人たちは、そもそもの立脚点が異なるのです。
では、個人的なアイデンティティーを守ろうとすることは、個人主義として否定されるべきものなのでしょうか。わたしたちは、自分たちの自己決定権を捨てて「社会・共同体が規定する形」に従わなければならないのでしょうか。
「結婚を機に改姓したい」と望む自己命名権は認められ、「結婚しても改姓したくない」と望む自己命名権は否定されるというのは、極めてアンバランスではないでしょうか。
そして、この論文では、「夫婦別姓」の理論について、極めて重要な視点を提示しています。
ここで夫婦別姓の問題は、フェミニズムや日本の伝統文化といった視点だけにとどまらないことが明記されています。
姓名の問題は、そもそも「国家に対抗して国民が持つ「言語権」についての問題」だというのです。
「名前は単に個人をアイデンティファイするためのものではなく,国家や企業が,自らそれをコントロールする権利があると考える対象」であり、名前を国家がコントロールするのは、「単一主義の方向性を貫こうとする国家の抑圧」にほかならないと言います。
そして、ここで夫婦別姓の議論は「自由論に関わる問題」であると明言されています。この「自由論」とは、私、すなわち[なまえる]の御名部ミライが「自己決定権」という言葉で表現しているものとまったく同じだと考えます。「人の一生に関する意思決定をする権利を正当に一人一人の男女に委譲するための問題」であるという視点は、私の考えとまったく同じです。これこそ、わたしたちがわたしたち自身の名前を自分で決定する権利を確保することの意義であるといえます。
名前という、人の一生に関わるものに対して、自分の名前を自分自身で選ぶ権利=自己命名権を、正当に、一人ひとりの男女が手に入れること。それこそが選択的夫婦別姓の議論における中心的な意味であるということを、この論文は示してくれています。
これは約25年前の論文ですが、その主張の本旨については現在、さらに重要性が増していると考えられます。
わたしたちは自己命名権を取り戻すことで、わたしたち自身を取り戻さなければならないのです。