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自分の感受性くらい

今朝、起きた時に
とある詩を思い出しました。

自分の感受性くらい 
            茨城のり子
 
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
 
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
 
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
 
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
 
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
 
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

自分の感受性くらい 茨城のり子

初めて茨城のり子さんの詩を
知ったのは、中学生の時

父が童話社の詩集を
買ってきてくれたことが
きっかけでした。

感受性という言葉の意味を
当時は
どう解釈していたのかは
わかりませんが、

さいごの「ばかものよ」の
インパクトが
忘れられずにいたようです。

年を重ねながら感じてきた
自分の生きづらさが
その感受性ゆえの
「繊細さ」というピースであり、

その概念を
自分の内面の違和感に
あてはめることで

随分と自分の心が
俯瞰出来るようになったと
感じています。

しかし、何かあると
その枠の中に逃げこんで

「だから、私には出来ません!」と
声を大きくして言う、ということが
正しい主張なのか、

再び悩んでいた時に
この詩を思い出しました。

感受性が強いからこそ、
内側にもぐり、
その分外側へ開いていくこと

それは 
とてつもないエネルギーを
要することでもあります。

けれど、そこに
存在意義がある。

人生という波を乗り越えるには
今はあまりにも
目や耳から入る情報が
あふれすぎています。

だからこそ、
自分の中で守ること、
一歩踏み出していくことの
勇気とバランスを
自分の感受性で感じ取っていく

感じた違和感は
心地よさへのヒントであり、
そこを探求した上で感じとれたものが、
自分の中の真実です。

自分が感じたことを
インターネットやAIに訊いても
100パーセントの答えは
教えてくれません。

自分の心の
大切なものまで、
便利さに委ねない、

そうじゃないと
使わないものは
薄れていってしまう。

感受性が強いからこそ、
弱いのではなく、
強くあれ。

茨城のり子さんからの
時を越えたエールを
受け取ったように思いました。

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