2022.10.22 雑筆
2022年10月22日
気候について
朝晩は冷え込むようになった。しかし、昼間はまだ暑い。九州の片田舎には、まだ夏の名残がある。
私はフリーターだ。基本、午後14時半から19時半までの5時間半のシフトが入っている。家を出て、10分もあれば職場に着く。私は14時までには家を出るよう心掛けている。バイト先に着くまでの10分間。それが10月半ばの今はまだ、暑いのだ。
仕事について
バイト先での私の働きぶりを、最近になって評価されるようになった。たかがアルバイト、たかが専修学校卒で、(これは決して全国に数多存在する専修学校への侮蔑ではない。ただし、私が卒業した学校の質は、お世辞にも良いとは言えぬものだったのだ。)たった5時間半働いているだけの私が、定型発達者のコミュニティで、評価されたのだ。これは私にとって、とても喜ばしい出来事でありながら、その一方で、とても重たく心にのしかかってくる出来事でもある。
私は、私がいくつかの障害や疾患を抱えていることを、バイト先の人間には隠して就労している。
高機能自閉症、ADHD(注意欠陥多動性障害)。現在では広汎性発達障害と呼ばれている障害の群と、Ⅱ型双極性障害を患っているが、何とか、働いている。働けている。
嘘だ。限りなく、崩壊に近い境界線上で、ふらつきながら、下を覗き込んでいる。
仕事ぶりを評価された、と私は先述したが、しかしそれにより、私の仕事量は、事実上増えることになった。
今、私はとある飲食店で働いている。詳しくは言うことができないが、あえて言うならば、いわゆる、専門店である。しかし本店ではない。フランチャイズチェーン店だ。そして増える仕事というのは、事務仕事だ。フランチャイズ契約を結んでいる社長はまた、別の店舗も経営しており、そこには事務所も存在している。(曖昧にしか書くことができず、申し訳ない。私はこのあたりの事情には詳しくないのだ)私はそこで働くことになったのだ。働きぶりと、若さを買われたらしい。
本来ならば、私はこの事実を喜ぶべきだろう。ただ死んだように決まった動作を繰り返していただけだというのに、何故かその態度を評価されたのだから。しかし、私は不安で仕方がない。何故ならばこの一連の出来事はいわゆる、「やりがい搾取」ではないのかと、その疑念を払拭することができずにいるからだ。
「仕事が増える」。それは単純に作業量が増えるということだけでなく、負わねばならぬ責任もまた、増えるということだ。しかし、給料は増えない。増えるのは、作業量と、そして責任だけだ。休みもまた当然、増えない。
また、私には別の不安もある。
「障害を隠して就労している」と先に私は述べている。これが問題なのだ。
私には、一日5時間半、週に5日の就労が限度だ。それ以上には、ほぼ絶対に、働くことはできない。いや、「働くこと」そのものはできるだろう(それは「働く」という単語が持ち得る意味の範囲にもよるが)。しかし、仕事の質が下がることは必須だ。それは、どうしても避けたいことだ。たかがアルバイトだろう、と他人に言われたとしても、だ。私は私なりに、この仕事に誇りを持って(その「誇り」の感情が、私を疲弊させているのかもしれないけれど)労働をこなしている。何もかも不出来な私であるからこそ、他の人間に決して文句を言わせぬよう、努めている。けれども、これ以上働くのならば、その努力を細部まで尽くすことは難しくなるだろう。私が、血反吐を吐き、定型発達者たちがひしめくこの社会の中に、平伏して築き上げた「日々の安定」は、崩壊してしまうだろう。それはひどく恐ろしいことだということが、この駄文をここまで読み進めてくれた読者のあなたにも、伝わるだろうか?
不安はこれらだけではない。
私がこれ以上働くのならば、私は私生活をも犠牲にせざるを得ない。私に、「定型発達者たちが構成する社会へ適合するための努力」と、今、このような文章を書く、「自身の本質を問い質す努力」を同時に保つキャパシティは、存在していないのだ。長くて週に2日の休みでは、到底、5日間続く社会からの過剰な刺激を処理することはできない。だというのに、これ以上仕事が増える。一体、どうなってしまうだろうか? 答えは自明だろう。だから、私は不安で仕方がないのだ。
水の底について
明るい話題へ変えようと思う。
散歩していて見つけた、(一部の人間には、この記述は嘘であることがわかると思う)素晴らしい景色についての話題だ。
高い橋の欄干、そこから見下ろす景色について。
球磨川は、日本一の清流とも謳われる、川辺川を支流に持つ川だ。そんな球磨川そのものは、日本三大急流というものに選ばれているらしい。しかし今は、球磨川の流れについて話すつもりではない。それはまたの機会にしようと思う。
私は、球磨川と19年間、とても間近に生活をしてきた。三度、住む家を変えたが、そのどれについても、すぐそばには球磨川の流れがあった。だから、私は球磨川の美しさについて、飽きるほど知っているつもりでいた。球磨川がどんなに澄んでいるか。その流れがどんなに美しく、雄大か。
けれど先日、私はこんなによく見知っていた「はず」の球磨川の美しさについて、新しい発見をした。球磨川に架けられた高い橋の上から見下ろす、球磨川の流れを見て。
球磨川は、先述した通り、美しいことには絶大な評価を受けている水が流れている。当然その流れは、快いほどに澄み切って、川底まで見通すことができる。
「清流」と呼ばれる中でも、群を抜いて美しい、薄青い流れ。
しかし、私がその日、その橋から見下ろした球磨川は、白く濁っていた。先日の台風の影響で、一度水量の増えた川は、その後天葵が回復するにつれて元の流れに戻っていった。けれど、水の濁りだけがどうしても、元通りにならない。
「白く濁っている」、と私は言い現わしたけれども、それは決して球磨川の流れの美しさを損なっているわけではなかった。
冷たさをもって、キラキラと輝くような青さが、普段の球磨川の流れを言い表したものならば、その日私が目にした球磨川の流れは、翡翠のような、独特の柔らかな感触(これは石そのものの硬度について述べているわけではありませんよ!)をした青色だった。
暖かい日差しと、冷たい風の中でその青色を見ていると、引き込まれるような感覚がした。
それが、今でも脳裏に焼き付いている。柔らかい青。翡翠のような青。柔らかく、この身を受け止めてくれそうな、青色。
私は、あの景色にすっかり魅了されてしまったと思う。あの景色は誰にも、私自身でさえも、否定することはできないだろう。
漕げ漕げボート夢の国
そしてもう一つ、明るい話題を。
今日は、『CRESCENT 冷たい海の底』という映画を見た。
初見では、私のような浅学で感性に欠けた人間にとっては難解な映画だったが、あらすじやストーリーを省き、印象に残った部分のみを書き記しておこうと思う。
「静かな海辺の別荘で、波の音ばかりを聴きながら静かに過ごす母子」
「何度も繰り返される、波、水。そして、変化のない荒涼とした海辺」
この二点だ。そして、この映画をもっとも印象深くしていたのは、メインキャストとして登場している、幼い子供の姿だった。
何故、この映画についてこの場で触れたのか、不思議に思う人もいるかもしれない。(いや、同じ水辺の話題だから、そうは思わないかもしれないけれども)
どうしてこの場で、この映画について触れたか。それは、この映画の中で何度も繰り返される水の流れや波の音、「水の中に還る」というテーマが、どうしても、先日欄干から見下ろした、あの川の景色のように感じられてならないからだ。そしてもう一つ、幼い子供の姿があったからだ。私のような人間には、あの可愛らしい幼子と過ごす時間など、与えられないだろう。そう思うと、無性に寂しく感じてならなかった。そして、どうしても、欄干の下に「還りたくて」しかたがなくなってしまうのだ。
あとがき
気候の話も、仕事の話も、水底の話も、ここで終いにしようと思う。このnoteの下書きを書いている時刻は、午前11時46分。昼食を摂り、数十分もすれば、今日も働かなくてはいけない。具合は、随分良くなった、と、思う。何故ならば、こんな冗長な文章を書くことに、時間を割く自分自身の存在を、許すことができているからだ。
仕事は耐えがたい。けれど、それはどんな人であれ、(たとえ定型発達者であったとしてもだ)ほとんどが抱えている感情らしい。ならば、もうこの苦悩は、解決のしようがないのだろう。何にしたって、発達障害者の上位互換である、定型発達者であっても、解決できていないのだから。
私は今、「今」をやり過ごせるのならば何にでも縋ろうと思い、超自然的な力にも頼るために、天然石を編み込んだアクセサリーを身に着けている。何故だか、少し安心できる。これが、超自然的な力の賜物なのだろうか? 何にせよ、何事も信仰心が大切なのだと、よく理解できた。最後に頼りになるのは信心だけなのかもしれない。
往生際の悪い希死念慮
橋の欄干からの景色について考える。脳裏に焼き付いて離れない景色について。
もうすぐ昼食の時間なので、この雑筆はここで終いにしようと思う。何の内容があるわけでもない、散らかった文章だったと思うけれど、読んでくれた人がいるなら、それはとても喜ばしく思う。
ここまで読んでくれて、どうもありがとう。そして、私がいつか川底に「還る」日を、どうか一緒に、待っていてください。
2022.10.22