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津波にのまれた仙台市立荒浜小学校を訪れて

はじめに

この記事には、津波の被害にあった建物の画像を掲載しています。見るのがツラい方もいらっしゃると思います。
ご自身の判断にてご覧いただきますようお願いいたします。

きっかけ

東日本大震災から11年。
私は東北出身ではあるが、東日本大震災の時は大学生で東京に住んでいたため被災しなかった。実家も内陸なので、多少地震の被害はあったが、津波の被害にはあっていない。
震災の被害、津波の恐ろしさを忘れないためにも、「仙台市の被災」をこの目で見ておこうと思い、震災遺構・荒浜小学校を訪れた。

荒浜小学校は仙台地下鉄東西線荒井駅からバスで15分、海岸から1キロもしない場所にある。震災当日の3月11日には、240名ほどの住民の避難場所になり、津波の被害を受けた。黒い海の中にまるで離れ小島のようにぽつんと学校あり、その屋上から救助を求める避難者の映像を見たことがある人も多いのではないか。

外館

外見をみるとただの学校、どこにでもある小学校。違和感を感じるとすれば、周りが本当に何もないこと。

校舎に近づき、2階のベランダに「津波浸水高」と書いてある看板を見上げる。

入り口は、海側の校舎の側面にある。入り口すぐ上のベランダの鉄格子は飴細工のようにぐにゃりと曲がっていた。津波の威力が伺える。
校舎は海に向かって垂直に建っている。そのお陰で津波の威力を最小限の面積で受け止めたから、全壊しなかった。これが平行に建っていたら津波をもろにくらって、校舎が倒壊していたのではないか。と地元の方が言っていた。

津波に沈んだ1階

校舎内に足を踏み入れると、ただただ茶色い世界。壁や天井が土砂で濁り、剥がれ落ちていた。今は何もないすっからかんだが、被災時はここに大量の土砂、家の一部だった木材などのがれき、さらに車も津波に押し込められたという。

2階

津波が到達した2階の壁には、床から30cm程のところに真っ直ぐうっすらと1本線が入っている。どこまで津波が浸水したのかがハッキリわかった。廊下にあった鉄の棚は、海水を被ったところだけ錆びていた。
目の高さにあるものや天井はキレイなのに、足元だけ嫌に暗い。

4階

3階、4階は救助がくるまで避難所として使われていた。3階は当時の様子をそのまま残すためにも、一般公開はされていなかった。

4階の風景を目にした時が一番衝撃だった。どこにでもある小学校の教室がただただそこにあったからだ。
クラスのルール、修学旅行の集合写真、3月の予定と3月14日の時間割が書いてある黒板。14日には卒業式の予行練習があったようだ。
1階、2階のおどろおどろしい雰囲気と同じ建物とは思えなかった。日常と非日常は紙一重で、あの日、一瞬にして日常が非日常になってしまったんだなと改めて思った。

4階には津波の被害を受ける前の荒浜地区のジオラマがあった。今の風景では想像できないほどの家屋が建っていて、そのひとつひとつに名前や思い出が書いてあるプレートが刺してあった。

屋上

屋上からは荒浜地区を望める。まっさらな大地と舗装された道路、そして静かな海が見える。ここにあったたくさんの物が一瞬でなくなってしまったのだなと改めて感じた。
「避難の丘」や津波を止める防波堤になる「復興道路」など今後の津波対策のために、新たに作られた場所も目に入る。

せんだい3.11メモリアル交流館

荒井駅の構内に「せんだい3.11メモリアル交流館」がある。
東日本大震災を知り学ぶため、津波により大きな被害を受けた仙台市東部沿岸地域の記憶を語り継いでいくための場所です。

荒浜小学校の帰りに立ち寄ると、実際に被災された語り手さんがいらっしゃった。震災当日の様子や、その後の生活のお話など貴重なお話を聞かせてもらった。
その方は、職場の2階で避難し津波にあった。波がはねて2階の窓から入ってくる程の高さまで津波が届いたそうだ。
震災後は、大波にのまれる夢で起きる日が続き、鬱になった時期もあったそうだ。また「水恐怖症」になり、湯船にも怖くて入れないとのこと。海は見るのも怖く、昨年10年の節目の際に、やっと海を見ることができたそうだ。色んなものが混じり合った真っ黒な海面が脳裏に焼き付いていて、目の前に広がる青いキラキラとしたものが海だとすぐに信じられなかったと言っていた。


「10年ひと区切り」という言葉があるように、2021年で慰霊祭や寄付を終了にしたところもある。しかし、被災地・被災者には区切られることなんてないのだ。


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