4/12 やっぱり死にたい話
死ななければならない、死ななければならないと何かが私を駆り立てる。
本当に死にたいのかと問われたら返答につまると思う。
特に、あなたのような、余命短い人に問われたら。
私が今、しわくちゃの老人で未来がないとしたらもう天寿を全うしようという気持ちになるかもしれない。
けれど私の「天寿」はまだ未確定である。
これから先もたくさん些細なことで傷つきその度目の前が真っ暗になるほどの絶望に突き落とされるというのなら、今後の幸せも無意味なのでは、人生の総幸福量は流した涙で洗い流せてしまうほど些細なのでは、という妄執に囚われて息も出来ないし20歳になりたくない。
この先の不幸が死んだ方がいいよと囁いてくる。
不幸の声に怯えてさらに死にたくなる。
不幸であるほうが文章が書ける気がする。
私の言葉を、思想を、すきだと言ってくれる人達のために生きているようなものだから、私は不幸であった方がいいのかもしれない。
何もかもをドブに捨てて、雨の日に傘もささずに突っ立っているような、そんな環境をつくりあげた方がいいのかもしれない。
ここ最近繰り返し何度も書いているけれど、コロナ関連で思想のぶつかりあいが起きているのが気持ち悪い。
政治的なものもそうだし、あらゆる言説が力を持って戦っている。
それを誰もがみていて、また新たに賛否という言説を加える。
剥き出しの感情が怖い。
SNSを辞めればいい、とかそう簡単な話ではなくて、剥き出しになった感情の禍根が残るのが嫌だ。
絶対にコロナ騒動が終わったあともこれは残るだろう。
私には生まれた時から批判されるような属性が幾つかある。
インターネットキッズだった私はもれなく嫌韓ブームに乗っていた時があるのだが、のちのち自分もその血がガッツリ入っていることを知って「血の気が引いた」。
周りと一緒になって向けていた悪意が自分にかえってくるなんて思わなかった。
別に意識が高いことが言いたい訳じゃなくて人の感情って恐ろしいなという意識が根底にある。
絶対どこかでコロナ禍の 言説 による被害者がいて、世界に絶望していると思う。
自分に似た人間が生まれるのは心底愉快である。
世界に絶望した子供がどんどん増えていく。
自殺数はユートピアであるほうが多いという説がある。
公共福祉が整った北欧の自殺の多さは有名だ。太陽光の不足という意見もあるけれど、中途半端に整った社会にすらこんなに絶望する私には、完成された社会に殺されてしまう人間の方が想像がつく。
より良い世界になればなるほど、死者が増えるというのなら。
私の悲鳴はどこにも届けられず、私の不幸はどこにも届けられず、この世が生きにくいと思う人間は静かに死んでいくべきだろう。
黙殺されてしまえばいい、こんな死にたいを羅列する戯言なんて。
ぼんやりとした不安を言語化する能力を持っていてよかった。
20歳になりたくないという基本不可能な欲求を、それっぽく理由付け出来てよかった。
よかったのかな?
ぼんやりとさせたまま生きていく方が幸せなのかもしれない。
むしろ全人類そうしているようにみえる。
じゃなきゃ、こんなにも膨らむ不安を全人類平等に持っていないことになる。幸福の格差社会だ、そんなの。
言葉を力にしたいのに。
///楽園 mao sasagawa #NowPlaying