あれから二年。2018年11月8日の火災に人生を変えられたわたしの心の内。
今思えば、こんなにも「運命」っていうものを意識した時間はありませんでした。
求められるままに自分のキャラクターと顔を出してライターやインフルエンサーとしてやってきたわたしが、2018年11月からの二年間はひとつの蔵のために「私たち」「弊社」と一人称を変えて、「ライター」の域を超えてやってきました。
とある本に「運命は、それまであったほかの流れを全部消し去る働きをしていく。ロマンティックな面だけじゃない怖い面もある。」と書かれていて、頷いたものです。
きっと「運命」とは、今までの固定概念や予定調和をアレよあれよと言う間に自ら選んで壊していき、そして責任をとっていく。という痺れるような恐ろしい一連の作業のことを指すのだと思います。
以前より、山陽盃酒造とわたしについて事実と異なるように噂を流している人がいると聞いています。羨ましいんだろうから、わたしはいいのですが、家族や仲間のために、いつか、自分の言葉で報告したいと思っていました。仕事に関する未公開情報、内部情報を抱えているため、言えないことが原因で、蔵にも自分にも不利益になる誤解を生みたくなかったから、ずっと黒子に徹してきました。ようやくシードルの一般発売も決定したので、少し語らせていただきます。
なぜ酒蔵の人に?~二年のあらすじ
2018年北海道地震、実家で被災して、その数日前、札幌の「播州一献」特約店さんと会っていたため、酒屋さんから、偶然聞きつけた壺阪専務から心配のお電話をいただきました。
しかもこれもたまたまその翌週、壺阪専務がとりまとめをしている姫路のイベントにいく約束をしていたから、札幌→神戸→宍粟で直行して、sadoyaで専務と一緒に飲みました。
関「ライターとして、現場で働いてしっかり勉強したいんです。いつか…と思ってたけど、被災して決めました!今シーズンどこかの蔵にいく!」
壺「うち来ればええやん」(←たぶん半分くらい社交辞令)
関「なんと!やった!来ます!」(←冗談が通じないタイプ)
市役所に「住込みで働く期間、宍粟市のPRもします!」とメールして、
アポをとって、お話を聞きにもいきました。こうして「播州一献」を醸す「山陽盃酒造」で正式に数ヶ月蔵人として酒づくりすることになったわけですが、現地入りする予定の3日前の2018年11月8日。山陽盃酒造で火災が発生しました。
火災発生から現地入り。その後の戦い
東京で身支度をしていたわたしは、姫路の酒屋(友人)からの電話で知ります。「関さん、播州一献、燃えとう!!朝から播州一献の在庫ぜんぶくださいって電話が何件も来るからおかしいと思ったんやけど…」
慌ててニュースを見ると、速報が。やがて航空からの映像も配信されはじめました。まずは壺阪専務に電話。「いやぁ……燃えとう…」
電話を切った後、できることは何もなく、みるみる燃えゆく蔵の映像に動揺して、泣いて、しばらく放心したあとで、壺阪専務に「予定通り行きたいと思っていますがどうですか」ともういちど電話すると「正直来てもらえると助かる」との回答。「よそ者のわたしにしかできないことがある。邪魔といわれたらすぐ帰るつもりでいこう。」と心を決めて、翌日に現地入り。
予想はしていたものの、現実は厳しく。当初は大変でした。火災跡地にカメラを向けて嫌な顔をされたり、様子をSNSでアップしているのが遊んでいるように見えたのでしょう。あまりに辛い言葉も投げかけられました。
「いやいやいや わたしだって生活とライターとしての人生がかかっていますがな。これがわたしに出来ること。蔵の為だし…」と思いつつ、グッと呑み込んで、麹室の脇で隠れて泣きました。
今思えば、泣き言いわず火災当日から凛と笑っていた専務のもとで働く人たち、みんなめちゃくちゃいい人たちなんですけど、どうしたって、都会から来た素人ではない新人バイトなんて、扱いづらいに決まってます。
そりゃあそーよ。誰もがみんな平常心ではいられなかった非常事態。心が落ち着かない状況で、いつもと違うことばかりする奴が目について苛立つ気持ちもよーーくわかります。
しかし、私も人間だから。
いくら覚悟を決めて行ったとて、慣れない町、慣れない(鹿と猪に囲まれる)環境での生活と肉体労働。非日常によって心身ともに大きなダメージを負っていきます。「ひたむきに仕事をして証明するしかない!」という状況と責任感が、より一層自分を追い込んでいきました。(もちろんみんなフォローしてくれたけど、わたしの身体が弱かったんだと思う)
私を救ってくれたのは、SNSを見てくださっていた人たちでした。「関さんの記事をみて」と酒販店さんや酒造関係者、ファンの方、はたまた従業員の友人・ご親戚のかたなどがコンタクトを取ってくれたことで、すこしずつ風向きが変わっていきます。義援金口座開設にあたって動いたことも、大きかったかもしれません。
「播州一献の関さん」と呼ばれて。
ありがたくも、イベントで「山陽盃の関さん」と指名いただいたり。わたしを囲んでの「播州一献の会」を開いてくださったり。蔵元である壺阪雄一の存在を知らずに、わたしキッカケで「播州一献」を知って飲んでくれる人も増えました。
わたしのことを「日本酒ライター関友美」ではなく「播州一献の関さん」として認識する人が多くいます。
こうして
山陽盃酒造とわたしは、自然と運命共同体になっていきました。
酒蔵の変革スタート「気になる…蔵の色んなことが気になるぞ!」
酒蔵という特殊な環境で働くなかで、元経理OL且つ、ゆうに100蔵以上見て回ってきたライター&インフルエンサーの私は色々なことが気になります。
・会社としての体制
・発信文書の体裁
・お客様との接点の持ち方
・地域とのかかわり
・ブランディング などなど
もちろんみんな会社を良くしようとはしている。だから、今まで変えられなかった事情は百も承知。家内工業ってどこもそんなもの、という認識はしつつも、改善できそうな色々なことについて壺阪専務と語り合ってきました。
「自分もそれは気になっていた」とすぐ納得して貰えることもあれば、反発されることも。何をどういう順番で進めればいいのか、熟考を重ねプレゼンしていきました。この頃から、自分の肩書きが何なのかいよいよ怪しくなってきます。
そして、
・SNSオフィシャルアカウント開設/運営。
・ホームページのリニューアル。
・直営店にお客様との接点を持てるBARを設ける。
・新規顧客層との接点をつくる。
・一般の方が気軽に仕込みの様子を見れるようにする。
・シードルの開発
・地元の産品と魅力をともに発信する。
・プレスリリースの配信
★「地元には播州一献がある」と地域から誇りに思われる蔵になる。
現場に足を運ぶことや、杜氏と話をさせていただくことは、何よりわたしの勉強になるわけで。自己鍛錬のつもりで自腹でも通い続けました。(シンプルに宍粟が好きだっていうのもあるけど)
話を進める上でまさか、バックオフィス(経理、財務、人事、総務、秘書…)、葬儀屋、小料理屋、日本酒BAR、バックパッカー、佐渡島にあるホテルでの住込み、銀座の夜職、高校時代の商業研究部など、今までのバラエティーに富みすぎた経歴や趣味がジワジワ生きてくるとは!人生にムダはないですね。
最近では少しずつですが、私の頭の中に「理想の播州一献」をつくり共感を得て、形にしていただいたものもあります。
シードル立ち上げ~裏方の苦悩
少しずつ信頼を得て、ようやく仕事として任せていただいた大きな取り組みとしては、今回の「シードルロンロン 」の立ち上げとプロデュース。
蔵の未来を賭けた大きなプロジェクトです。「プロデュース」なんていうと、聞こえはいいですが。プレゼン資料を作って壺阪専務を説得して。ブランディング講座に参加して、シードルの勉強をして資格をとって、壺阪専務に説明して。日陰の泥臭い毎日です。
北海道、青森、長野のシードルリーさんにアポを取って見学させていただき、壺阪専務の横で記録係したり。地元りんご園さんに想いを熱弁して頭を下げ。初めてのクラファンについて調べたり、ページを一人で1週間かじり付きで構成して書いて。作家さんやデザイナーさん、印刷所との打合せ、ラベルシールを探し回ったり。
今まで築いてきた信用を総動員して、みんなに助けてもらってなんとか走り続ける日々。ほとんど名前のつかない地味な仕事。キラキラと華やかな仕事なんてありません。なんなら日々壺阪専務と議論して、何度も何度も喧嘩してきました。
コロナの影響で、蔵と東京の自宅とを行き来できなくなった時期が長かったので、「東京にいるから出来ることをしよう!」と意気込んで、りんごアレルギーなのに騙し騙しテイスティングしました(シードルならイケるっていう医師がいたので)。
100種類以上の他社シードルの味を知った頃、朝方に蕁麻疹が出て倒れて、救急窓口に駆け込んだこともありました。(※その後は控えてます/りんごアレルギーのシードル担当者・シードルマスター資格保持者爆誕です。)
Makuake販売開始直前には、専務の名刺を一緒に整理してから、手書きのDM葉書と、メールを一通ずつアナログで、合わせて数百通送りました。
蔵のみんなはわたしの動きを知ることもなく。現場から離れているのでモチベーションを維持することもひと苦労。孤独で、虚しく「わたしなにやってんだろう…」と呟いたのも1日や2日じゃありません。
でも会社の大切な新規プロジェクトを任せていただく貴重な機会なんて、今後の人生で二度と訪れないかもしれない。もはや意地でした。
意地の末につかんだMakuakeの実績。今後の課題
クラウドファンディング「Makuake」はおかげさまで、11月8日に完売となりました。本当にありがとうございます。
・応援購入総額 3,340,000円
・サポーター 400人
・開始18日で完売。
・開始1日目で1,880,000円達成。
・狙い通り、女性比率41%
売上金額、購入人数や話題性を見て、「すごいね」「成功だね!」「嬉しいでしょう?」と言ってくれる人がたくさんいます。
それでも、わたしはいまだに嬉しさよりも安堵。
「手を貸してくれた人、信じてくれた人を裏切らずに済んだ…」と。購入者データがメールで飛んでくるたびに「あ、あの人だ」と名前を見て泣きました。課題は山積み。安堵よりもこれからの不安が勝ります。
酒づくり〜出荷までの現場の手間、りんご園さんたちとの関係、特約店さんからの期待を思えば、一発の成功なんてスタートに過ぎない。
内外から「愛され続けるシードル」になって、蔵と酒販店の利益になって、シードル業界に貢献して、宍粟市や兵庫、はたまた日本のPRに一役買ってはじめての成功です。
成功して当然。コケれば「播州一献」に傷がつき、スタッフも応援者もガッカリします。そんなの絶対に許される訳ありません。
思えば【愛する酒が沈んでいくところを見たくない】【自分にできるだろう目の前の問題を見て見ぬふりできない】
無我夢中でやってきた二年でした。
壺阪専務ががむしゃらにやってきたこの10年。無名だった「播州一献」を押し上げた彼の突破力やスピード感、美学や特約店を大切にする気持ちが好きなので、壊さず、刷新ではなく進化や守りの強固を目指して。
説得するために、マーケット、ブランディング、心理を学び、最終的には、なにより「禅」の教えに助けられました(笑)
「人を変えることはできない。自分が変わらねば」と、涙を流しながら(時に倒れたり発狂しながら)歩いてきました。
二年前のわたしにとっては、たまたま「播州一献」だっただけです。別の蔵とのご縁だったら、今頃違うエリアにいたかもしれません。だけど、まるで神様から「ここでやるべきことをやりなさい」と置かれたような流れ。山陽盃酒造だからわたしの力が生きたし、ココだからなし得たこともあるでしょう。ご縁であり、濃密な二年でした。
いま、二年前には想像できなかった景色がわたしの前に見えています。
感謝と御礼/心からの願いとお酒への恩返し
・情報を教えて下さったシードル醸造所の方
・Makuakeをご購入くださった方
・二人三脚でやってくれるデザイナーさん
・最高の油絵を仕上げてくれた作家さん
・テイスティングに協力くださった方
・マーケティングについてアドバイスくださった方
・写真撮影に協力くださった方
・瓶・名前選びに協力くださった方
・わたしを支えてくれた東京&神戸&宍粟の友人たち
・自分を信じてくれた山陽盃酒造の蔵元と皆さん
本当にありがとうございます!まだ途中だけど、関わるすべての人に、御礼したかったのと、よく聞かれる「最近何してんの?」「蔵にいるん?」に対する回答です。
ライター業と蔵の仕事を両立させながら、東京と兵庫を相変わらず行き来しています。12月にはシードルの一般発売も控えています。新酒も続々と出てきます。取材も立て込んでくるらしいです。コラムも書かねばなりません。本の依頼も来てます。
ここから年末まで、さらにフルスロットルでいこうと思います。辛かった気持ち、悔しかった想いなどは昇華させて、酒の肴にしたいと思います。
わたしはちっぽけだから、上流から業界は変えられないでしょう。大好きなお酒を守るだけで精一杯です。でも、川下からインパクトを与えることで、周りの人たちや、現場の心、シーンの一角を変えていくことならできるかもしれない、と思っています。
今わたしを支えてくれている殆どの人は、お酒のシーンで出会った人です。お酒がなければ対等にお話できなかった偉い人、年上の人、若い人…あらゆる人。何をやっても続かなかったわたしに自信もくれました。お酒が今のわたしを形作ってくれたと言っても過言ではありません。
良き日本酒が絶えませんように。お酒の楽しさが、広く、末永く伝わっていきますように、と願ってやみません。
いわば『お酒への恩返し』です。だからこれからも「播州一献」をはじめ全国の素晴らしい日本酒、ならびにシードルの情報を発信していきたいと思います。
二年分老けたくらいで(笑)、目に見える部分は何も変わらないかもしれませんが、当事者意識が強くなって、確実にやれることは増えて、戦闘力は相当アップしました。内面はわりと別人です。
わたしの人生を変えた火災から、二年の節目に。
あらためましての方も、はじめましての方も、今後とも関友美をよろしくお願いいたします。
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