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【随筆】想像力でストーリーを描く

わたしの部屋に一枚だけ、写真を飾っている。

祖父と一緒に写ったものだ。物心つくまえだから、わたしが2歳くらいのときのもの。わたしが5歳のときに祖父は他界しているので、祖父との思い出はごくわずかで、断片的にしか覚えていない。祖父が幼いわたしを抱き上げてくれているこの写真も、一緒に撮ったという記憶がない。

しかし、それから40年以上経った現在、この一枚の写真を中心に、母が聞かせてくれた祖父の話をふくめ、わたしが覚えているかぎりの祖父との思い出がつなぎ合わされている。母がよく、「おじいちゃんがあんたを連れて、遠くまで散歩したんだよ」とか、「おじいちゃんが、哲也はいい子だといつも言ってたよ」など、話してくれた。優しかった祖父のイメージは母の話によるものだ。

晩年の祖父は認知症がはじまり、わたしは祖父とゆっくりと話をしたことはない。覚えていることと言えば、認知症で耳の遠かった祖父がイヤホンを付けてテレビを見ているときに、いたずら好きのわたしは、そのイヤホンをテレビから抜いて、逃げた。部屋には大音量が響きわたる。祖父が慌てるのを遠くから見て、面白がっていた。ほどなくやってきた祖父のお葬式のあと、「おじいちゃんにはもう会えないのだ」と、突然、理解できた。「もう少し、おじいちゃんに優しくしてあげればよかった……」そんな後悔に、涙が止まらなかった。

ところで、写真というものは、視覚にのみ訴えかけてくるものだから、そこには当然、音、味、匂い、手ざわりはない。しかし一枚の写真が、想像力をとおってわたしの五感を刺激する。そして、あたかも祖父がそこにいるかのようにわたしには感じられもする。すると、この写真がひとつの新たなストーリーを生み出すのだ。

ここで言うストーリーとは、「過去」を語る昔話にかぎったことではなく、わたしたちの豊かな想像力の産物として「現在」に開けてくるもののことだ。たとえば、なにかに思い悩んだとき、「おじいちゃんなら、どうするだろうか。なんと言うだろうか」と想像してみる。すると、祖父が今ここにいて、じっさいに言葉をかけてくれるようにわたしには感じられる。もういないはずの祖父との対話、つまり新たなストーリーが「現在」に開けてくる、とはこういうことだ。

そして、新たなストーリーは「未来」へも開かれている。奥田民生に「風は西から」という曲があり、わたしはそれを自身の応援歌にしている。サウンドがかっこよく、詞がまたいいのだ。

虹は見えても渡れない 
雲をつかむようなうかれた話
虹を渡って雲をつかんで 
君にあげるよ ほんとの話
笑う人には笑っといてもらおう
風は西から強くなっていく
明日へ突っ走れ 
未来へ突っ走れ 魂で走れ
明日はきっといいぜ 
未来はきっといいぜ 魂でいこうぜ
厚い雲を飛ばして 太陽を呼び出して 
輝き放題

(奥田民生「風は西から」)

博士論文を準備していたときに、わたしはこの曲をヘビー・ローテーションで聴いていた。「博士号なんて無理。やめておけ」と忠告してくださる人たちをよそに、くじけそうになっても前だけ向いていられたのはこの曲のおかげだ。わたしの前には未来へのストーリーが展開されていた。

ところで、わたしには長らく不思議だったことがある。それは、なぜ奥田民生さんはこれほどまでに前向きな詞が書けるのだろうか、というものだ。双極性障害を発症してからというもの、どう転んでも、わたしの中からはこんな詞が生まれるとは思えない。奥田民生さんには未来が見えているのか。いや、そんなことはないだろう。では、思考がポジティブなのか。もしそうなら、ポジティブでいられる根拠はなにか。

わたしを不思議がらせてきたこの問いへの答えは、今よくよく考えてみると、とてもシンプルなものだったのだと思う。それは「根拠はない」というものだろう。「未来はきっといいぜ」と考えたほうが前向きでいられる。そこに根拠はない。

確かに、「論文を書き上げられると思う根拠はなにか」と問われても、あのときのわたしには根拠などなかった。書きあげる日をただ夢みて、研究し続けていただけだ。自分を信じるという意味での、根拠なき自信があっただけだ。

「未来はきっといいぜ」と言えるのは、未来のことを知っているからではなく、未来はきっと素敵だと想像できるからだろう。そこに根拠はない。反対に、「未来はきっとだめだぜ」と言えるためには、どんな根拠が必要だろうか。こちらにも、根拠はないのではないか。今日までだめなことばかり続いたからといって、「明日もきっとだめだぜ」とは言い切れないのではないか。明日がいいか、だめかは、明日になってみないかぎり、わからないのではないか。

  ・未来はきっといいぜ
  ・未来はきっとだめだぜ

どちらも想像可能なのだが、どちらも根拠を欠いている。それなら、「未来はきっといいぜ」と想像していたほうが杞憂なく、肩の力を抜いていられるのではないだろうか。なるほど、アン・シャーリーも言っている。

世界って、とてもおもしろいところですもの。もし何もかも知っていることばかりだったら、半分もおもしろくないわ。そうでしょう? そうしたら、ちっとも想像の余地がないんですものねえ。

(モンゴメリ『赤毛のアン』村岡花子訳、新潮文庫)

ともすると、「知る」ことによって得られた知識こそが客観的で確かなものであり、「想像する」ことは根拠のない空想や妄想の類とみなされがちだ。しかし、五感によって事実を観察するという意味での「知る」ことは、わたしたちが思っているよりも、世界を見るための視野がせまいような気がする。その視野のせまさを補い、見えない部分を見るためのもうひとつの目こそが、「想像する」ということなのではないか。

わたし自身の人生を振り返っても、こどもの頃のほうが空想力に富んでいたと思う。その力は、大人になるにしたがって、だんだんと失われていった。代わって、大人になるにしたがい、苦い経験を積み重ねてくると、次はこうなるのではないか、また悪いことが起きるのではないか、と推測が先に生じてくる。

悪いことは簡単に想像できるいっぽうで、期待を裏切られることを怖れて、また根拠を求めるあまり、いいことは想像できなくなってきたように思う。でも、少しだけ、いいことを想像してみたい。それは怖れずに、今いるところから一歩を踏み出してみることなのだろう。ストーリーはそうして描かれるはず。未来はきっといいぜ。

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