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<極私的モロイ論>改訂版

<モロイ>朗読に際して~ 関根俊和

 #1 朗読の経緯

ベケット小説三部作の一作目<モロイ>は、世界的に有名な戯曲<ゴドーを待ちながら>の執筆前に書かれたものらしい。その経緯からして<ゴドー>を知る者なら、<モロイ>の中に、<ゴドー>のイメージの原型を数多く見つけることができるだろう。例えば、自殺についての考察は、エストラゴンの首吊りの失敗。息子を鎖で自分に結びつけて逃げ出さないようにするモランの夢想は、ポッツォとラッキーの姿に酷似している。もっとも、<ゴドー>の、ある意味では、謎めいたセリフに対して、<モロイ>の文体は、あくまでも明晰であり、小説的な、あるいは文飾的な矛盾や虚偽を、一切許さない強靭さを持つ。

<ゴドー>の成功により、ベケットは広く世に知られるようになった。だが、<ゴドー>の演劇的斬新性に比べて、<モロイ>は、いわば<反・小説>=<小説の革命>だった。当時<モロイ>はいかなる出版社からも出版を拒否されたようだ。<反・小説>が売れるはずもない。というか、編集者すら、<モロイ>の真意を理解できなかったようだ。もっとも、私事だが、四十五年ほど前、本屋で<モロイ>の背表紙を見て、読んでみようと思ったものの、ほとんどなにも理解できない。そのままそっと本棚に戻したのは、おそらく、自分だけではないはずだ。

<ゴドー>に関しては、真意は理解できないとしても、読む側の力量によって、それなりの了解が得られるような気がした。要するに、難解ではあるが、まだ読めたのである。が、<モロイ>はまったくと言っていいほど、取りつく島がなかった。

転機は二十五年ほど前に訪れた。経緯は、芝居の題材を探していたのだろうか、いまは詳しく思い出せないが、とにかく、<モロイ>を読んだ。それも、違った翻訳を三つ。その一つが<安藤元雄>訳だった。言葉が、すっと頭に入ってきて、流れた。これはいわば<モロイ>の独白=モノローグだ。ひょっとしたら、再構成して芝居にできるかもしれない、と思った。

若いころから演劇の<独白>は好きだったし、多少の経験もある。<モロイ>のフランス語や英語は知らないが、自分は日本語の<モロイ>、ありていに言えば、<安藤元雄のモロイ>に直感したわけだ。<モロイ>は、声に出して読むように書かれているし、そう読める。

体の不自由な浮浪者が、なにかぶつぶつ呟きながら、通り過ぎていく。あるいは、だぶだぶの厚手のオーバーを着て、じっと地下街の通路に佇んでいる。この東方の国にも<モロイ>は遍在している。興に乗って<モロイ>の最初の部分、とくに<母親の調教>を中心にして、抜粋台本を作ってみた。

もっとも、あの当時の自分には、それを上演する力量はなかったし、演劇化する確たるイメージも持っていなかった。劇化のイメージを深められず、<モロイ>の言葉を身体化できる俳優のあてもなく、そのうち、コピーされた抜粋台本は、ほかの反故台本と一緒に、本箱の下の方で眠りについてしまった。

 また月日が流れた。2000年ころに眼病を患い、健康不安に陥った。それ以前から稽古をしていた<説経節>を断念した。<ささら>片手に、野外で大声を出すことが、もう体力的にも精神的にも無理だった。そのかわり、というか、ほとんど体力を使わない<モロイ>の朗読なら、できそうな気がした。いま思えば非常に安易だが、往生際が悪く、依然として演劇的表現にこだわっていた。

さいわい、以前、抜粋構成した<モロイ>の台本が手元にあった。途中で放り出して、未完ではあるが、とにかく、読みだした。それをビデオに撮影して、自宅で少し稽古をした。だが、どうにもこうにも<モロイ>の言葉が浮ついてしまい、絵空事になっている。<モロイ>との実存的な接点がぼやけたままだ。

<モロイ>のどこに、何に惹かれたのか、発語の根拠を探したが、結局、そんなものはどこにもない。おりしも、眼病は悪化し、一回目の<モロイ>朗読の企ては自然消滅した。

ちなみに、その時の稽古ビデオが残っている。だが、これはいくらなんでも、人様にお見せするわけにはいかない。下手でも、そこに言霊が宿っていればいい。そうではなくて、たんに下手なだけなのだ。

一方では、眼病の悪化により、失明の瀬戸際まで追いつめられていた。演劇から足を洗うか、と本気で考えざるを得なかった。

話がだいぶ脱線してきたが、この文書では、<モロイ>朗読の経緯、朗読の諸問題、<極私的モロイ論>を書くつもりでいる。

眼病による頻繁な眼発作、失明の不安、薬の副作用、それに、お袋の介護。辛く、苦しい日々が続いた。その中で、唯一、気持ちが和むのは、出始めたばかりのデジカメで、なじみの入間川の風景を撮ることだった。

2000年頃に歩いた、四国札所を敷衍して、入間川中流域約50キロ、橋ごとに番号をつけて、その間を、例えば<入間川五番、昭代橋>として、毎日歩くことを自分に課した。四国巡礼は、中途半端なままで、まだ四分の一しか歩いていない。だから、これは、いわば疑似巡礼の意味を持っていた。実存的な危機に瀕して、こうしたことで、己の矜持を支えようとしたのだ。

とはいえ、健康上の問題で、この疑似巡礼はしばしば中断された。自分には、もう若さも健康もなく、それらのありがたさを、いやというほど思い知らされた。それでも、暗闇の世界に生きることになる前に、入間川の全風景を、この目に、この頭に焼き付けておきたいという思いは強かった。失明した後に、ゆっくり、それらの風景を楽しむことができるじゃないか、と。

入間川<疑似巡礼>は、いわば、希望とも呼べない、弱者の抵抗だった。この間、六、七年、河原をさまよい、寒風に吹かれ、炎天に焼かれながら、感傷的に、<モロイ>は俺だ、と思った。そして、河原に暮らす、ホームレスたちの姿を見るにつけ、<モロイ>の遍在を感じた。浮浪者=モロイであり、自分は、そうした意味では、精神の浮浪者=モロイだった。ろくに<モロイ>を読んでいないのに、こう思えたのは、極度の自己閉塞で、少しおかしくなっていたのかもしれない。いや、なにかにすがりたいと思っていた。不在者=<モロイ>と自分が、どこかで通底していると思いたかった。

ちなみに、ユーチューブ版<モロイ朗読>の背景に流れる画像は、このとき撮ったものである。いま残っているものだけでも、数万枚はあるだろう。もっとも、そのほとんどは反故写真で、まともなものはほとんどない。

というような経緯を知っていただければ、朗読の背景に、超スローで入れ替わっていく、拙い画像の意味が、少しは理解していただけるだろうか。もっとも、自分としては、朗読と画像に、ほとんど違和感はない。画像には<モロイ>との実存的な接点が刻印されている。

 さて、また月日が流れた。眼病を発してから、五、六年で、幸いにも、それ以上の眼発作は起きなくなり、失明の不安は少し和らいだ。さらに五、六年たち、左眼の視力はほとんど失ったが、寛解し始めた。要するに、両眼とも、元には戻らないが、これ以上悪くなることはなくなった。

むろん、頼みの右目に発作が起きない保証はない。その時は、文字を読むことも、パソコン入力もできなくなる。外出はおろか、人の手を借りた生活になるだろう。だが、もう十年もたった。大丈夫だろう、という楽観論で押し切って、お袋を看取り、オヤジを看取り、なんと、十五年にも及ぶ介護生活を無事に?終了した。精神的にも、肉体的にも、時間的にも、言ってみれば、<モロイ朗読>の環境が整ったわけだ。

肩の荷が下りた。これまで、これといったこともしてこなかったが、いちおう、人間としての役目は果たしたと思った。父母の死の、ほぼその瞬間まで付き合ったのだ。<自由>を感じた。これからは、何でもできると思った。だが、よくよく考えてみると、やりたいことも、やるべきことも、何一つなかった。心は、すっからかんだった。

入間川疑似巡礼が発展的に解消され、興味は<花写真>の制作へと移っていた。だが、それも、こうなった以上、なんだかやる気になれない。後退戦にすぎないわけだ。車で日本全国、絶景巡りでもしようかな、だがそんなことが、果たして面白いのか。残り少ない人生を費やすに値することなのだろうか。一瞬感じた<自由>は霧散していった。

とはいえ、このまま、家にこもっていても仕方ない。介護生活の中で、思い描いていた<沖縄旅行>を敢行した。一人旅は、お袋の介護が始まった2000年以来、十五年ぶりだった。楽しいことは楽しかったが、それだけだ。依然として、心は空っぽのままだ。

そうだ、灯台巡りをしようという案が浮かんだ。日本全国の灯台を撮り歩くのも、一興だ。ためしにと、静岡辺りの灯台を二、三撮りに行った。だが、これも思ったほど面白くはなかった。どこからか、灯台なんか撮って、何になるんだという声が聞こえてきた。せっかく、生れて初めてといってもいいが、自由に動ける時間と金があるのに、それを活用できないで、自室で腐っている。

ふと思いついて、本棚に並んでいる、これまで演出した作品のVHSビデオを、ユーチューブに、保管がてらアップしてみようと思った。ビデオに記録されたものは10本ほどだが、これを動画処理して、ユーチューブにアップするには、初めてのこともあり、かなり手間取った。というか、かなり集中した時間を過ごすことができた。

要するに、何十年かぶりに、自分の演出した舞台を見て、いろいろ考えさせられた。以前は、拙さだけが目について、思い出すのも嫌になっていたが、それだけではないなと思った。頭が、久しぶりに働いたのだ。

それに、<ユーチューブ>という表現媒体について、これまた初めて、まじめに考えた。ユーチューバーになって金を稼ぐ、などというばかげた話は、ひとまず置いて、これまで特権的であった、映像=動画の配信を、素人が手軽にできるということに思い至った。驚くこともない、インターネットの効用だが、それが、文書、画像を越えて、動画にまで及んでいるということが重要だ。

しかも、それらを、スマホで誰でも、いつでも、好きな時に見ることができる。半世紀ほど前、自分が演劇に関わり始めた頃には、ほとんど想像できない世界が展開されている。才能や資本のない者たちの、世界へ向けての、他者へ向けての、自己表現の機会が増大し、その媒体の多様性と相互性は奇跡的といってもいい。老兵は去るのみ、か!だがしかし、このまま中途半端な感じで終わってしまうのは、じつに悔しいではないか、と頭の隅で思った。最後の最後に、自分というものを、もう一度突き出してもいいのではないか、と。

断念を宣言した演劇が、というか、演劇的表現への希求が、亡霊のように立ち現れた。今自分にやれること、やりたいこと、やるべきこと、やっておきたいことは、少なくとも<花写真>でも<灯台写真>でも<絶景巡り>でもないだろう。

そこで、閃いた。ベケットの小説三部作の朗読だ。これまで、誰もやったことのないこと、おそらく、この世界で、自分にしかできないこと。これらの考えに少し興奮した。決して辿り着けない山の頂、その高みを目指して、歩き続ける。最後には、頂を仰ぎ見ながら息絶える。少し感傷的になったりもしたが、すでに心の底では決めていた。

<自分というもの>の周りで右往左往してきた自分に、<私≒無>を開示してくれたベケットを、もっとちゃんと理解すること、理解しようとすることが、<無>や<不在>にたいする、自分なりの抵抗だ。ベケットを朗読しながら、残りの時間を有意義に過ごそう、と。即座に、朗読の背景には、入間川の風景写真を流すことに決めた。あの当時<不在>を抱えてさまよった入間川の風景だ。

 #2 朗読の諸問題1

さらに、この野望?の背景には、ユーチューブにアップすれば、同じ種族の人間が、いつか見てくれるかもしれないという、いわば、はかない希望、人恋しさ、人類への連帯感があった。正直にいえば、誰かが見てくれるかもしれない、聞いてくれるかもしれないという可能性に甘えたのだ。いや、甘えてもいいだろう、と思ったような気がする。

表現の外枠は決まった。ユーチューブだ。内容は、むろん、それに制限されるし、規制される。<表現>は、その制限や規制を越えていくものだ、などと言ってはいけない。どのような制限や規制を引き受けるかで、<表現>の質が決まるのだし、決めなければならない。つまり、限界をも理解しなければならない。<朗読>が浮上してきたのも、こうした考えが頭にあったからだ。

今、自分が、演劇的な表現に関わりたいと思うならば、とりあえずできることは何か?少なくとも、半生をかけて、ちょっとオーバーかな、二、三十年、悪戦苦闘した演劇の演出ではないだろう。残された武器は、ちゃっちい武器だが、文字に書かれた言葉を音声化する感覚と、発語に際しての、多少の技術と経験だろう。それらを最大限に活かせる表現は、言ってみれば<朗読>しかないような気がした。むろん、伝統的な、というか、一般的に言うところの文学作品や詩の朗読ではない。もう少し演劇的な、いや身体的な感じのものだ。芝居の台詞、とくに長台詞=独白=モノローグに近いものだ。

<安藤元雄のモロイ>に直感したのは、その言葉が、演劇の世界で言うところの<モノローグ>と隣接していて、なおかつ、文体の硬質なリリシズムが、自分のある感覚を刺激したからだ。要するに、感動したわけだ。声に出して、読んでみたいと思ったし、それを静かに聞いて、<モロイ>を理解したいと思った。

原典の、ベケットのフランス語の<モロイ>はもとより、いや、フランス語は読めないので、こんな言い方はすべきではないが、<安藤元雄のモロイ>は、不遜な言い方をお許しいただきたいが、演劇的なテキストとしても、ほぼ完璧だと思った。あとは、これを読むだけだ。

ユーチューブという枠組みで、<モロイ朗読>の動画を作る。自分が画面に出て、本とかコピーとかを見ながら、<モロイ>を読んでいる姿を映す。これは、実験済みで、見るに堪えなかった。というのも、人間が画面に出てくると、どうしても、その生身の身体や表情を見てしまう。結果、視覚と聴覚が、相補うというよりは、相反してしまい、言葉への集中が緩くなる。身体や表情を、なるべく消去する<朗読劇>などというものもあるが、いかにも中途半端だろう。

話を戻すと、ある能力を持った俳優、つまり、言葉を身体化できる感覚と技術を持った俳優の当てがない以上、人間の姿は見せない方が得策だ。主役は<モロイの言葉>なのだ。朗読する人間など邪魔だろう。ということで、画面は<声>だけにする。と考えたが、背景が黒一色というのは、なんとも味気ない。ならば、その上に字幕を流す。だが、これだと、<声>を聞かないで<字>を読み続けてしまう。やはり、はじめにイメージしたように、入間川の風景画像を流してみよう。風景画像なら、ちらっと見るだけで、すぐにまた<声>に戻ってくる。これも自分の中で確かめた。

いちおう、その辺まで心づもりして、実際に<朗読>し始めた。いや、その前に、面倒な作業がある。パソコンの画面に<モロイ>の言葉を打ち込まなければならない。パソコンを見ながら、マイクに向かって朗読し、それを録音して、音源にするのだ。

ところで、<モロイ>は、特に前半部は、改行なしで延々と言葉が続いている。なぜ、改行して、読みやすいようにしないのか?あえて、読みにくくしているようにも思える。<文章>の作法を、初めから無視しているのだ。とはいえ、<無視>することで、これは<文章>ではない、と強く主張しているようにも思われる。だが、<文章>でないとすれば、この二十万語以上にも及ぶ、言葉の群れ、奔流は、いったい何を意味しているのだろう?

正直言って、よくわからない。わからないのだけれども、魅かれる。何に、魅かれているのかも、よくわからないが、これまで、読んできた<文章>とは別物だ。意味不明の不可解な光が放たれていて、もっと近づいていけば、はっきりわかるかもしれない。そういう誘惑すら感じる。

それが<モロイ>の文体だ、と言ってしまえば、身もふたもない話になってしまう。<文体>が生成されるところの、不定形のものを理解したいと思うのだ。 だが、朗読は身体に深く根差した行為だ。<AI>が<活字>を音声化するのとは、位相が違う。人間は、延々と言葉を発し続けることはできないのだ。それに、今の自分には、集中力だって、十分ほどしか続かない。その証拠に、七、八分すると、言い間違いや言いよどみが極端に多くなる。録音がしばしば止まる。いいも悪いもない、おのずと、ワンセッション、つまり、ワンシークエンス五分前後の朗読となった。

もっとも<モロイ>を内容的に見ると、改行という約束事はないが、実質的にはシーンが変わっていくわけで、そのシーンの変わり目を見つけて、番号をふった。とはいえ、そのシーンが、五分前後で必ず終わるわけでもないので、そういう時は、分割したり、最長七、八分まで頑張った。

こうして、シーン分けして、番号をふり、見出しをつけた。例えば、<1‐1 書き出し>。これを本文朗読の前に、音声化して付け加えた。要するに、小見出し、ということか。釈然としなかったが、そもそものところ、<小説>を<朗読>するという、無謀なことをやっている。自分の朗読は、一種の<ベケット論>なのだからと正当化して、前に進むしかなかった。

ところで、もう一つ、朗読に関する自分の流儀を、書き添えておこう。読むにしても、聞くにしても、まずは自分を基準にしている、と思っている。だから、自分が読んでいて、あるいは聞いていて、心地よい、とまではいわないが、発語のドライブ感や、静聴によるイメージの広がりは大切にしたかった。そうした、ある種の感覚的な<遊び>が、それ自体面白いから、<朗読>を続けることができるのだ。<朗読>を修行や講義にはしたくなかった。

もちろん、内容は、一番重要だ。書かれている言葉の意味を理解すること、あるいは、了解することなしに、たとえそれが曲解であり、歪曲であり、極端な場合には、勘違いであるにせよ、発語することに関しては、かなり厳密な態度で自分に臨んだ。これは、舞台演出者としての名残だろう。

<朗読>する前には、必ず、演劇の世界で言うところの、<テキストレジー>をした。つまり、声に出して、耳に聞こえる言葉として、通用するか、という問題だ。

文字としての漢字なら、どのような<音>であれ、その意味が理解できる。ところが、<音>だけだと、意味を理解しかねることが多々ある。しかも、アクセントが同じだとか、あるいは、日常語としてあまり使われない言葉だとかは、耳に引っかかる。せっかく気持ちよく言葉の流れに乗っているのに、齟齬が起きる。楽しいドライブ中に、ちょくちょく急ブレーキがかかる。外の景色=言葉の内容が一瞬そこで途切れ、意味が置き去りにされる。

単語などの<音>に、朗読上の、そうした齟齬があるときには、もちろん、<安堂信也><三輪秀彦>の訳語を参考にした。(2019年からは<宇野邦一>訳も参考にした。)不遜ではあるが、その中で、最良と思えるものを使わせてもらった。

あとは、発語に際して、テキスト文のリズムを整えることだ。さらには、聞いていて、すっと頭に入ってくるような、意味の明快さを求めた。句を前後に入れ替えたり、<て・に・を・は>を変更したりして、この作業も最良を目指した。

 問題は、内容≒意味に関することで、これが一番悩んだ。いくら読んでも、何を言っているのか理解できない。意味が取れない。三つの訳書を、かわるがわる、それこそ穴のあくほど見ていても、やっぱり理解できない。のみならず、自分なりの了解すらできないのだ。

これには困った。先に進めない。それが、第1シークエンスから出てくる。いちいち例示することはしないが、とにかく、何らかの対応を迫られた。三つの訳文を切り貼りして、無理に了解したふりをしてみたが、かえって、おかしな日本語になってしまった。理解、ないしは了解できない言葉を発語することを、自らに禁じていたのだから、これは、なかば、その約束を反故にしたようなものだ。

思い切って、その部分、いくら読んでみても聞いてみても、意味が取れない箇所を、最小限削除して、先に進んだ。だが、その後にも、理解不能、了解不可が、どんどん出てくる。自分で決めたことだけれども、その都度、削除していくのに、最初は疑問、次には痛み、さらには罪悪感に似たようなものを感じた。

体裁を考えて、理解できない部分を、暗闇に葬ってしまうのは、本末転倒なのではないか。もともと<モロイ>は、自分にとっては意味不明なのだ。その<意味不明>に魅かれているからこそ、朗読したいと思ったのではないか。朗読していくことで、その<意味不明>を理解したいと思ったのではないか。ならば、この台本作りはいったい何なのだ。

あっさり、というほどでもないが、自分の頭を放棄した。<安藤元雄のモロイ>を信じよう。大げさに言えば、心中しようと思った。理解できない箇所は、自分なりに了解できるように、最大限努力して、それでもなお、決着がつかないのなら、理解・了解できないまま、理解・了解したふりをしないで、読んでいくことにしよう。いつの日か、ちゃんと理解できる日が来る可能性を残しておこう。 

とはいえ、了解できるテキスト文の、発語上の、語や句の読みやすさ、聞きやすさは、自分の感覚を信頼して、変更させてもらおう。この点に関しては、さほど痛みも罪悪感も感じなかった。翻訳文を恣意的に変更しているのではない。目で読む文章を耳で聞く文章へと、意味を損なわないで、変換しているのだ。その自負があったからだ。

これで、テキストに関しての問題は、いちおうの決着がついた。

 #3 朗読の諸問題2

次は、実際の朗読現場だ。ここでの問題は、物理的、技術的なことが主たる問題になった。まず、朗読全体の時間だが、これは、一話、三十分以上、四十五分未満とした。根拠としては、じっと朗読を聞いていられるのは、それがたとえ、自分が読んでいるものであっても、三十分以上聞いていると、退屈になるからだ。そんなことが、根拠になるのか、と言われそうだが、こうした個的な生理的、体力的、精神的な条件を無視することはできない。

良くも悪くも、最良の観客は自分である、と思っている。自分が面白いと思えないものが、他人に面白いはずがないし、面白がってもらっても困るのだ。ありていに言えば、ユーチューブに<モロイ朗読>をアップしたところで、視聴するのは自分だけだろう。今更、人様のことを考える必要もあるまい。要するに、自分が良かれと思うようなものを作り、よかれと思うような状態で観賞したいのだ。

 だが、それを、あえて、半公共的な表現媒体で行う必然性があるのか、などと言わないでほしい。四の五の言っても、作り上げたものを、人に見せたい、見てもらいたい、共感してもらいたいと思うのは、人類の習性なのだ。その辺のことは、大目に見てもらって、先に進もう。

こうしてやっと、ワンシークエンス・五分前後、一話・三十分前後という、<モロイ朗読>ユーチューブ版の骨格が決まった。

ところで、いわゆる<朗読>に関しては、ほぼ素人だ。これまで、それらしきことをした覚えはない。いや、似たような経験といえば、<説経節>を<ささら>を手にして、大声で叫んだことぐらいだ。これは、演劇的には、おそらく<演技>と<朗読>の中間あたりで、なんとも説明しがたいが、いちおう自分的には<演讀>と言っている。一般的には<朗誦>に近いかもしれない。そのうち、二十年ほど前のことだが、その<説経節・山椒大夫>の野外試演などを、ユーチューブにアップするつもりだ。

ともかく、<朗読>の世界のことはよく知らない。とはいえ、常識的な知見では、新劇系の俳優や、テレビ・ラジオのアナウンサーなどが、多いような気がする。もっとも、ネット検索すると、いまは<朗読>ブームで、自分のような素人が、文学作品の<朗読>を楽しんでいるらしい。

勉強のために、ユーチューブに公開されている<朗読>動画を見た。その中で、特に感心したのは、<岸田今日子>や<市原悦子>といった、新劇の大女優達だった。この方たちの朗読は、いわば名人芸で、おそらく日本の<朗読>芸?の最高峰に位置するだろう。皮肉ではなく、あまりにすごすぎて、参考にもならない。 ほかにも、<青空文庫>などの、有名な文学作品の<朗読>に、真剣に取り組んでいる、質の高い<朗読>家がたくさんいた。だが、<モロイ>は<あの感じ=朗読調>では読めないよな、と、こちらも参考にならなかった。

となれば、松葉杖の浮浪者<モロイ>の言葉を、どうやって、自分に引き付けて語ろうか、と最初は思った。そう、語ろうと思ったのだ! そして、思惑とは、かなりかけ離れた、<音読>に近い<朗読>で<モロイ>の朗読を開始した。

だが、<朗読>を続けていくうちに、最初の方にアップしたものが、あまりに下手すぎて、耐えがたくなってきた。まずもって、その<語り>のレベルは、最大限好意的にみても、公開できるレベルでない。誤読や言い間違い、言いよどみもあり、技術以前の問題も散見される。もっとも、だんだん良くはなっているが、それでもやはり、<勢い>でアップしてしまった、一話から九話までは、全面的に録音しなおしだろう。ため息が出た。  

立ち止まって、ここで指摘しておこう。ではなぜ、それほどまでに、へたくそな<朗読>をアップし続けたのか、ということだ。むろん<朗読>の力量、技術がなかったからだが、そればかりではない。そうだ、最初は、<モロイ>を読み始めたという高揚感があり、そんなにひどい出来だとは思っていなかった。目が曇っていた。しかも、ひと月に一本アップするという自分に課したノルマにせかされていた。その結果、質より量を優先する心性が働いていたのだ。

だが、半年もたてば、高揚感は薄れる。ノルマも順調にこなせるようになってきたので、気持ちに余裕が出てくる。マイクに向かっての<朗読>にも慣れてきて、冷静に自分の<朗読>の質を見定めた。

技術以前の問題だ!<タッチ>が違うような気がした。<朗読>は、人に向かって、語り聞かせるような<タッチ>だ。<モロイ>はちがう。そうじゃない。<語る>のではなく<呟く>のだ。 語って聞かせるのではなく、自分自身に呟く。閃いたのだ。自分の呟いた声に、ただただ耳を傾ける。目でテキスト文を追いながら発語し、なおかつ、それを聞き、聞くことでイメージされるものを頭の中で見る。基本はそれだ。

少し前に、<演劇的経験を反故にした>と書いたが、こうなった以上は、訂正するほかあるまい。<呟く>ことの方策は、<演劇的経験>の中で理解した、<独白>ないしは<発語>のメカニズムを敷衍し、その道筋に沿って、人間が普通にやっていることに立ち戻ることだ。徒手空拳ではじめた<モロイ>朗読ではあったが、やっとのことで、呪縛されていた<朗読調>から解放された。そして、いわば自前の<呟き調>へと進展した。

ところで、<朗読調>を<呟き調>に変更したのは、<モロイ>第一部を読み終わった後だ。気づくのが遅すぎたが、新たに録音しなおさねばならない。気が重かった!一部=九話全部、録音しなおすのに、どれくらいの時間がかかるのか、見当もつかない。 だが、こうなった以上、やるしかないだろう。

まず、一番ひどい<一話>から、録音しなおすことにした。なにがひどいって、言葉がうわずっているのが、耐えられない。気づかぬうちに、下手な演劇的発声をしているが原因だ。マイクは、良い悪いは別として、<無声音>や息遣いまで記録してしまう。演劇的発声とは別の発声法が必要なことを、今更ながら気づかされた。そこで、このマイクの特性を<呟き調>に利用して、第一話の再録音に臨んだ。

思ったほどは大変ではなかった。一応、再度テキストレジーをして、削除した箇所を元に戻し、<安藤元雄のモロイ>をほぼ99%復元した。何十回も読んでいるので、さほど、つっかえたり、言いよどんだりしないで、読むことができた。ただし、最後の一行で、間違ったときは、きつかった。あろうことか、そういうことが度々あった。最初からやり直し!とはいえ、録音中は、脇汗をかくほど緊張したが、自分なりに読み切った、いや、呟き切った時には、気分がよかった。そうこうしながら、一話から九話まで、順次、再録音していった。たしょうは、最初の<朗読調>よりはましになった。

朗読上の諸問題について、雑駁な感じになったので、少しまとめて、次に進もう。まず第一に、テキスト文に関しては、内容を理解・了解できないにせよ、削除などはしないで<安藤元雄のモロイ>を、ほぼ99%採用する。第二に、<朗読>のタッチを、<呟き>とする。第三に、<呟き調>を音声化するために、マイクの特性を生かす。低音小声、無声音も使いながら、言葉の流れの中に、踏み石のごとくアクセントをつける。なおかつ、意味がすっと頭に入ってくるような文節で区切り、声を張ることなく呟き続ける。

あと、音源の編集や録音の効率を上げるために<音声編集ソフト>を導入した。これで、だいぶ、精神的な負担が軽減した。<編集ソフト>はつい最近買ったばかりで、<モロイ>第二部の朗読にしか適用していない。雑音の除去などもできるので、いずれ、第一部もすべて、編集ソフトを使って、再々録音しなければなるまい。もっとも、その前に、<モロイ>を全部<呟き>切ることだ。

 #4 極私的モロイ論1-<曖昧さ><厳密さ>

当初、<モロイ>はベケットの生国、アイルランドで発禁処分を受けた。理由は、過激な?性的な描写ではないか、と何かで読んだ。なるほど、アイルランドは敬虔なカトリックの国らしい。それと、<モロイ>には、いわゆる<下ネタ>が多々出てくる。ちっとも下卑た感じ、いやらしい感じはしないが、 性的な描写や下ネタは、<モロイ>の本質にかかわる問題だと思う。つまり、おそらく、人間の根源的な欲望<睡眠欲・食欲・性欲>、それに知識欲や表現欲、遊戯欲といったものを、<モロイ>に、ある意味、生真面目に?語らせているのは、のちに、それらの欲望を<モロイ>からはく奪するためなのだ。

何のための<はく奪>か?<内田耕治>の著書<無の表現・表現の無>には、その辺のことが詳しく論述されている。自分なりに了解したことは、こうだ。<私とは何か>、その<私>の属性を一つ一つ、取り除いていき、いわば、<私>を丸裸にして、その正体を見定めるためだ、と。逆に言えば、とりのぞいた属性は、<私>ではない、ということを確信するためだ、と。

ちなみに、この<内田耕治>の著書<無の表現・表現の無>は、現在、日本語で書かれた<モロイ><マロウン><名づけえぬもの>に関する、最も優れた論文だと思う。雲をつかむような<モロイ>ではあるが、この論文を読むと、頭の中の霧が晴れていくような気がする。

それはともかく、<はく奪>は、持ち物、肉体など、目に見える形でも進行していく。緑色の大切な自転車は、衣食住が保証されていた<ラウス>の家を去るときに置いてきた。頼みの松葉杖での垂直歩行も、森の深い土壌に阻まれ、最後には水平移動になってしまう。排尿することもできなくなり、目もほとんど開けていられない。それでも<モロイ>は、冷静に状況を分析して、目の前の現実を踏破していく。文字通り、這って、這って、這いずり回って、悪魔のような深い森から脱出する。

ところで、<モロイ>の錯綜した言葉は、こいつはアホなのか、と思うばかりだが、おそらく、そうではないだろう。とにもかくにも、何一つ確かなことを言わない<モロイ>ではあるが、それは、<モロイ>を謎めいた人物に仕立てる上げる意匠でもないはずだ。<嘘は書くまい>と文中で、ベケットが呟いているが、おそらく、<モロイ>には、確かなことはなにも知らされていないのだろう。あるいは、突き詰めれば、実のところ、何もかもが曖昧で不確かなのだ。

この不確かさ、曖昧さは、<モロイ>を貫通する、大きな特徴である。だが、一方で<モロイ>は、例えば<16個のおしゃぶり石>で、それらの石を順番になめていく方法を、厳密に検討している。こうした厳密極まりない記述は、ほかにもたくさんある。事物、事柄の厳密な記述も<モロイ>の特徴なのである。いや、この二つの特徴は、<ワット>にも<マロウン>にも<名づけえぬもの>にも顕在しているのだから、<モロイ>の特徴というよりはベケットの<特徴>といった方がいいのかもしれない。

しかし、互いに相反するような<曖昧さ>と<厳密さ>の等価的な記述を、どう理解すればいいのだろう。 曖昧であるがゆえに厳密を求め、厳密を求めるがゆえに曖昧になってしまう、その振り子運動が、<モロイ>の文脈を形作っていることだけは確かだ。

もちろん、<モロイ>には物語的な時間軸=<母探し>も存在する。一般的には、こちらの方が取り沙汰されることが多いようだ。だが、<モロイ>は、その文体からも分かるように、<物語>にかなり懐疑的だ。いや、<物語>を異化しているといってもいい。実際、<俺が欲しいのは物語さ>と文中で<モロイ>に呟かせたり、あるいは、物語は目先を変える<糞>だとも言っている。

それでは、<異化された物語>の中で、<曖昧さ>と<厳密さ>との間を揺れ動きながら、<モロイ>は、なにを求め、どこへ向かっているのだろうか。読者というか、読み手は、この怜悧な問題に直面する。安穏と心地よく<物語>の中を漂うわけにはいかないのだ。

ありていに言えば、<モロイ>のモチーフは、<曖昧さ>と<厳密さ>の振り子運動を繰り返しながら、次第に変貌を遂げていく<モロイ>の姿なのであり、<モロイ>の変貌が、この<異化された物語>の主題である。そして、最後には求道者の相貌すらおびてくる<モロイ>に、<私≒無>へと至る道筋が暗示されているように思う。

モロイの文脈を形作っているものに、一見すると相反するような、曖昧さと厳密さの記述が多々ある、と書いた。これは、機能的には、主題=<モロイの変貌>の推進力であるが、同時に<実存の実相>を、言葉で掬い取った、生き生きとした、現象学的な記述と考えられないこともない。

生きている時間の中で、人間は、相反する、矛盾することを、平気で繰り返している。形而上の問題と、形而下の問題とが、いつも混在し、なおかつ無媒介に結びついている。それらは<ゴドーを待ちながら>における<ウラジミール>と<エストラゴン>の、無意味に思える会話に似ている。ベケットの著述に一貫している、人間の根源的な在り様についての<異化的>な記述なのだ。

 #5 極私的モロイ論2-<無>

さて、文脈を形作っている記述のなかに、繰り返し言及されるイメージがある。<モロイ>の核心と言ってもいいかも知れない。前に、<朗読の諸問題>の中で触れた、理解不能、了解不可な部分だ。誤解を恐れずに言えば、沈黙の世界、不在の世界のことだ。あるいは<無>のイメージ、その感覚的描写といってもいい。 これらの記述は、<モロイ>の中では、詩的で美しい。といっても、それが<無>についての記述らしい、と了解できたのは、少し時間がたってからだ。

自分の中にも、おもえば、世界が灰色に感じられる瞬間、暗い穴倉に閉じこもっている感覚、事物や事柄が、まったくしらっちゃけ、無意味に感じられてしまうことなど、<無>との遭遇は多々あったのだ。それも若いころには、かなり頻繁に。

目の前で繰り広げられていることは、自分にとってはまったく意味がない。意味=価値を感じられない。無意味なのだ。世界が無意味なのだ。青年期特有の鬱の状態だったのかもしれない。いや、世界にも自分にも、意味はない、と思い込みたかったのかもしれない。こうした<無>の感覚に根差した概念が、表現への強い動因になっていた。虚空に花挿す行為に身をゆだねて、儚い命を慰めてみようじゃないか、と感傷的になっていたのだ。

自分にとって<無>の感覚は、特権的だった。誰一人として、同種の感覚を持っているとは思えなかった。だが、例外として、ある種の文学や絵画、詩の中に、あるいは、病者の記述の中に<無>を直感している人間の表現、言葉を、感じることもあった。自分と同種の人間の、難解ではあるが、了解できそうな表現に接すると、なぜか勇気づけられ、根拠のない自信がわいてくる。あるいは、完全に<そっち側>へ行ってしまえば、病者扱いされるのか、とも思った。

若いころから巣くっている、この<無>の感覚は、初め、それが<無>とは認識できず、自分の中では<虚無感>ととらえていた。しばしば、自分も人間の皮の中に入り込んで、本来は自分の場所ではない場所で、はしゃいでいた。<そのあと引き返すのが、たまらない。どこへ引き返すかは言うまい。言えないんだ。ことによると不在へかな。そこへ引き返さなくちゃいけない。それだけはわかる。とどまるも地獄、去るも地獄さ>。

この<モロイ>の言葉で直感した。自分の奥深いところの感覚を刺激された。<モロイ>ほど頻繁ではないが、自分も<不在>へ引き返す辛さを感じたことがある。あそこは、そう、<不在=無>だったのか!

超難解、理解不能だった、ベケットの<無>のイメージ、その感覚的記述に、実存的に接続できた瞬間だ。理解できないまでも、自分なりの了解、それも頭の了解ではなく、全人間的に了解できたような気がした。<内田耕治>の論述通り、<モロイ>は、<偽の世界>と<無の世界>を行き来する放浪者だったのだ。

ところで、<偽の世界>での、<モロイ>の発語・行動は、ぎこちなく、ちぐはぐで滑稽だ。なぜだろう?それはちょうど、ロボットの声や動きに似ているような気もする。頭で考えたこと=プログラミングと、実際の行動の間には、タイムラグがあり、それが、どこか間の抜けたような感じを与える。異質な二つの世界にまたがっているがゆえの齟齬、と考えることもできそうだ。

 唐突だが、二部の主人公、<モラン>には、こうした<モロイ>のような発語・行動の齟齬はない。この<モラン>は、<モロイ>の中年時代という設定らしいが、<モロイ>探索の旅に出る前までは、<偽の世界>にどっぷりつかっている。その後、次第に精神も肉体も<モロイ>化していくが、終始<モロイ>のような、発語・行動に関しての齟齬はない。<モラン>は、<無の世界>を予感しながらも否定して生きている、<偽の世界>のインテリだからだ。

第二部から、読んでみるのもいいかもしれない、とベケットが、どこかで言っているようだが、確かに、二部では、息子にも逃げられ、這う這うの体で帰宅した<モラン>の最後の記述以外は、理解不能、了解不可といったものが、あまりない。<モロイ>のような曖昧な言葉もなく、厳密な記述も、まだ常識の範囲で理解できる。さらには、物語の時間軸も直線的で、一般的に言って、読みやすいし、理解しやすい。いや、息子との<弥次喜多道中>は、読んでいて単純に面白い。

だが、第二部を先に読んでしまったら、第一部の<モロイ>編は、なおさら難解になり、読むのが骨になるだろう。理由は、おそらく、一筋縄ではいかない<モロイ>の存在様式にある。<モロイ>が<偽の世界>と<無の世界>を行き来する放浪者、などと誰が理解できよう。

<モラン>編で、<モラン>は<モロイ>についてのイメージを語っている。引用・例示は、本意ではないが、いまはこだわっている時ではない。

<…息を切らしている。彼を思い浮かべるだけで(、)たちまち私も息切れがしてくる。まったいらな野原でさえ、彼は道を切り開いて進むようなありさまだ。歩くというよりもむしろ突撃している。そのくせごくゆっくりとしか進まない。熊がやるように、右や左に体を揺らせている。わけのわからぬ言葉を呟きながら頭をふっている。鈍重でずんぐりしていて、畸形といってもいい。黒いというわけではないが、くすんだ色をしている。いつもどこかへ向かう途中だ。休んでいるのを見たことがない。ときどき立ち止まって、たけり狂った目で辺りを見回す…>。

なるほど、<モロイ>のイメージが伝わってくる。しかし、この描写から、<モロイ>が<無の世界>の住人でもあることを理解できるだろうか?いや<無の世界>を直感できるだろうか?少なくとも自分にはできない。なぜなら、この記述は<無の世界>を否定して<偽の世界>に住んでいる<モラン>からみた<モロイ>であり、<無の世界>は、はじめから封殺されているのだ。もちろん、それがベケットの意図でもある。

おそらく、<第二部を先に読んでみてもいいかもしれない>という言葉は、<無の世界>の出来事よりは<偽の世界>の出来事の方が理解しやすいだろう、などという読者への優しさではない。<モロイ>の存在様式に関わることなのだ。

<モロイ>=<モロイ≒モラン>ならば、<モロイ>にとって、たとえ<偽の世界>でも、そこは、いわば自分の、もう一つの主戦場なのだ。<無の世界>と<偽の世界>は、いわば<モロイ>の表裏であり、だから<表>を先に読もうが<裏>を先に読もうが、順番は問題ではない。そういうことではないのだろうか?

もっとも<無の世界>についての直感や感性、認識は人さまざまだから、その記述の理解・了解は、正解のない問題に、自分なりの答を出さねばならないという困難さをともなう。それに比べれば、<無の世界>の記述がほとんどない<モラン>編、いわば普通の世界=<偽の世界>での出来事が、読みやすいのは自明のことだ。

ところで、<モロイ>編で繰り返される、恐ろしく詩的で美しい、だが一体何のことなのかと思ってしまう、<無の世界>の記述は、<モロイ>の文脈の中で、どのような意味があるのだろう。繰り返しになるが、これらの記述こそが<モロイ>の核心なのだと思う。

<モロイ>がときどき立ち寄る、というか、いつの間にかそこにいる<無の世界>を、理解ないしは了解、あるいは感受、感応できるか否か、<モロイ>の読書は、ひとえにそこにかかっている。<モロイ>が難解なのは、人類が予感しながらも否定してきた、物語ることができない<無の世界>についての<言葉>だからだ。いや、その入口に立つための<言葉>だからだ。

<私≒無>という感覚は、ベケットにとっては自明のことだったろう。それを、どう表現するか、どのように語るのか。いやちがうだろう、表現することも、語ることもできないのが<無>なのだ。だが、表現すること、語ることを無化できれば、<無>が、そこに<現出>するかもしれない。いわば<表現の無>≒<名づけえぬもの>へと至る道筋の中で、<モロイ>は構想されたのではないか。<モロイ>は<表現の無>へと至る一つの道標だったのだ。

 #6 極私的モロイ論3-<愛>

しかしながら、皮肉にも、三部作の中で、道標?であった<モロイ>が一番面白いのはなぜなのだろう?そこに<愛>があったから、と言ったら笑われるだろうか?

文脈の中での特徴的な記述を、もう一つ指摘しておこう。<モロイ>の女性に関しての、愛憎相半ばする記述だ。<無の世界>の記述が硬質なリリシズムに溢れているとすれば、この女性たちの記述には、上質なセンチメンタリズムが流れている。文脈の中での役割は、<無>と硬軟、表裏をなす<愛>と考えてもいいだろう。

女性は<母><ラウス><ルース>が主だったところだ。もっとも、<モラン>編には<マルト>という女中の記述があり、これも面白い。だが、いまは話を<モロイ>編だけに絞ろう。

言及する頻度は<母>が一番多い。のみならず、記述の時間軸はこの<母>が担っているようにも思える。<母>の部屋で、何か報告書のようなものを書いているところから<モロイ>は始まる。そして以後、<モロイ>の空間的移動の理由に、この<母>が引き合いに出されることが多い。すなわち<母>に会いに行くために、という具合だ。

もっとも、空間的移動の理由は、内なる<声>に促されることも多々ある。この<声>については、いまは不問に付す。<モロイ>以後の、とくに<名づけえぬもの>では、この<声>が主題になる。重要な事柄なので、その時にまた、取り上げるつもりだ。

とにかく、<モロイ>においては、いわゆる安定した時間や空間からの移動に、たとえば、衣食住を保証された<ラウス>の家から、いやこれは<声>に促されたのだ。そう<浜辺>とか<森>だ・・・この<母>に会いに行く、という理由が何回も使われている。物語の目先を変えるには、都合のいい理由だ、と思えないこともないが、もっと深い意味があるのだろう。

だが、なぜ、それほどまでに<母>に会いにいかねばならないのか?<母>にひかれるのか?最後の方になると、話し合って問題を解決する、というようなことも言っているが、それでもかなり<曖昧>だ。わざと、ぼかしているのだろうか?

もっとも、最初の方では、<カネ>をもらいに行く、という立派な理由があったのだ。が、いつの間にか、それも、うやむやになってしまい、母親が生きているのか、死んでいるのかも、定かではない。要するに、なにもかもが<曖昧>になってしまう。

とはいえ、<母>に対する、愛憎相半ばする、逆説的な記述は、一貫している。それは<愛>と<憎しみ>の、これまでお目にかかったことのないような、まさにベケット的な記述だ。痴呆状態の母親からカネをせびり取る<母親の調教>の記述などは、その真骨頂だろう。終始母親を動物扱いしながらも、最後には、思わず頬にキスをしてしまう。一見グロテスクに見えるこの場面ですら、何かそこに、ありきたりでない<愛>を感じてしまう。

次に、<母>ほどは、重要ではないが、おそらく<愛>を感じていたであろう<ラウス>について、考えてみよう。犬をひき殺してしまったのに、なぜかその代償として、衣食住を保証され<ラウス>の家に住むようになる。

この<ラウス>についての記述も、基本的には、愛憎相半ばする逆説的な記述が多い。そして、母親の生死すら、次第に定かでなくなるのと、パラレルな関係で、<ラウス>の素性も、次第に<曖昧>になっていく。ついでに言うと、<ラウス>の家も、そのうち、なにやら施設のような収容所のような感じになってしまう。

はじめは、金持ちの未亡人であった<ラウス>への、好意的な記述がみられる。例えば、ラベンダーを刈り取りして、匂い袋にしているとか、優しくて辛抱強いとか、経済的に余裕のある、上質な女性として見ている。互いに、多少の<愛>を感じているようだ。

だが、そのうち、ほとんど姿を見せないとか、カーテンの影から見張られているとか、食事に毒を盛っているとか、被害妄想的な記述が多くなってくる。しまいには、<ラウス>が、男ではないかと疑うほどになってしまう。言ってみれば、<愛の巣>が強制収容所になってしまう。それでも、<ラウスからの愛>を、家を去るときに感じている。

<もしかすると犬の墓のそばに行って座るぐらいのことはしたかもしれない、それがある意味では俺の墓でもあるわけで、ついでに言えば、彼女がそこに撒いたのは俺の思い込んでいたような草ではなくて、いろんな色をしたあらゆる種類の小さな花と草本植物のたぐいで、一つ消えると別のがともるという風に選んであったようだ。>

ある意味、これは切ない別れの言葉だ。<モロイ>の<ラウスへの愛>も、疑う余地がない。

<ラウス>には、<母>に抱いているような激烈な愛憎はない。ゆえに、その記述も、多少穏やかだ。そこはかとない、切ない感じが伴う。男女は、別れてしまえば、それっきり!<母>とは違い、もう二度と会うこともない。異性に対する感受性=<恋愛>のはく奪ということなのだろう。文脈の中では、色香が漂う数少ない記述だとおもう。

最後は<ルース>だ。<モロイ>が若いころに知り合った、年長の女性で、金銭的援助を受けているようにも読める。性の手ほども受けた。彼女との性行為の描写が、発禁を受けた要因なのかもしれない。ともかく、<ラウス>との関係が、おそらくプラトニックであったのに対し、<ルース>とは、いわば肉体関係だ。

肉体がらみの<愛>について、<モロイ>は饒舌だ。性交の描写は詩的で美しく、即物的で、かつ具体的に男女の<愛>について記述している。多少、逆説的ではあるが、なるほど、と思わずうなずいてしまうほど、説得力がある。

とはいえ、この<ルース>との<愛>も、そのうち覚めてしまう。そして、<ルース>が浴室で倒れて死んでしまったときには、悲しみはなく、<収入源の枯渇>という実利的な思いが先行する。この辺は、とくに<夫婦>の実態としてリアルである。さらに、近所の手前、この椿事=年上の情婦の死を、いかに収拾しようか、と考えているうちに、近所の人間たちによる隠ぺいだとか、<ルース>も男だったのではないかと、また被害妄想的に、疑い始める。

愛人や情婦が、男であると考えてしまうのは、おそらく、同性愛的な傾向が、ベケットにあったからかもしれない。いや、そうではなくて、男女間の愛も、同性間の愛も、<愛>に変わりないということなのだろうか?真意は、よくわからない。が、とにかく、一見、唐突に思えることも、<モロイ>なら考えそうだ、と思ってしまう。妙な説得力を感じる。読み手も、多少<モロイ>化しているようだ。

ちなみに、同性愛的なほのめかしは、ベケットの作品に多々見られる。<ゴドー>の小説版ともいうべき<メルシュとカミエ>は、そのいい例だと思う。<モロイ>の中にも、森で自分に言い寄ってきた炭焼きを殺害する、という記述がある。ある意味、この<殺人>も唐突だが、<私>の<同性愛的な傾向>の抹消=はく奪、と考えられないこともない。

戻そう。<母><ラウス><ルース>に共通するのは、<女性>、それに<愛>だ。その<愛>は、どれも一筋縄ではいかないが、そこに<愛>があることは、疑いえない。記述の量は少ないが、郷土愛なども、<モロイ>は語っている。それらもひっくるめて、これらのどこか切なく美しい記述は、<無>の対立項としての<愛>として、括ることもできる。そして、これらの<愛>の記述には、<同性間の愛>は別だけど、ある種の切なさが伴っている。

<モロイ>の主題は、<私>の属性をはく奪していくことだ、と書いたが、その<はく奪>するものの中に<愛>もあるわけで、この<愛>の<はく奪>が、思いのほか難しかったのではないか?つまり、振り切り、捨て去ることの哀しみだ。それを、上質なセンチメンタリズムと呼ぼう。人間的な郷愁といってもいいだろう。結句、<モロイ>は、哀惜しながら<愛>を捨て去った。それが、なんとも切ないのだ。

さらに、<愛>の記述は、<無>の記述と、対比、拮抗するような形で文脈を形作っていく。<曖昧さ>と<厳密さ>の振り子運動が、文脈の水平軸だとすれば、<愛>と<無>の記述は、垂直軸と考えることもできる。

また、この二十万語以上の<言葉の奔流>は、こうも言い換えることができる。<モロイ>は、<偽の世界>を、哀惜をこめて捨て去り<無の世界>へと赴いていく。それは、一介の浮浪者<モロイ>が、その過酷な<はく奪>にもかかわらず、いや、それゆえに、しだいに美しい沈黙を具現した、求道者へと転生していく物語でもある、と。暗い森の中を這い回る<モロイ>に、受難を引き受けた<キリスト>をイメージするのは、自分だけではないだろう。実際、<モロイ>も呟いている。<文字通りの、十字架の道行になっちまった>と。

 #6 極私的モロイ論4-<母>

最終局面の、深い森の中で、<モロイ>が、息も絶え絶えに、<かあさん>とつぶやく場面ある。<モロイ>の読書の中で、思わずぐっと来た、唯一の場面だ。

<…仰向けで進むことさえあった。松葉杖をめくら滅法うしろの藪に突っこみ、なかば閉じた目で枝ばかりの黒い空を見上げながら。お袋の家へ行くんだ。ときどき、母さん、と言ってみた。たぶん元気をつけるためだろう。>

どうも、こういう場面に弱いのだ!<モロイ>は、文脈の中で男女間、夫婦間、同性間、父子間(モランと息子)、さらには、郷土愛といった<愛>と名のつくものを、哀惜しながら捨て去ってきた。だがまだ、母子間の<愛>が、残っていたわけだ。この<愛>が、<モロイ>の最終局面まで残っていたのは、要するに、一番強い?<愛>、捨て去ることが、非常に困難な<愛>だったからだろう。

別の言い方をすれば、<母>は<私>をこの地獄のような世界に産み落とした、いわば、諸悪の根源ではあるが、同時に、その世界の中で<私>を愛し育んでくれた<母>でもある。<母>なしに<私>は存在しない。<母>は<私>の根源であり、その根っこを引き抜けば<私>が霧散してしまう。言ってみれば、<母>は<私>の属性ではなく、それ以上のもの、<私>の一部だったのだ。

<母に会いにいく>あるいは<母と話し合って解決する>、と<モロイ>の呟く<母>を、<私>に置き換えると、なぜ生きているか、死んでいるか定かでない<母>に会いに行かねばならないのかが理解できる。そして、最終局面で、<母>がまた立ち現れるのは、<偽の世界>に楔を打ちこんだような形で内在する、いわば、肉体化された<母≒私>という最強の愛に、決着をつけなければならなかったからだ。そして、おそらく、その決着とは、肉体のはく奪、<モロイ>の死を意味する。

肉体的な死を前にして、<モロイ>はおもわず、<かあさん>と呼びかける。<たぶん元気をつけるためだろう>とうそぶくが、<モロイ>が、最後に助けを求め、呼びかけたのは<母>だった。これは<私>の一部となっている<母>への、つまり<母≒私>への哀惜を伴った、訣別の言葉だったのではないか。肉体的な<愛>も、精神的な<愛>も、そして、その両方を兼ね備えた<母≒私>を失うことの、人間的郷愁だったのではないか!だから、切ないのだ。

森を脱出した<モロイ>を待ちうけていたものは、あっけらかんとした草原だった。だが、そこではもう身動き一つできず、溝の中に転げ落ち、横たわったままだ。想念の中で、鳥の声を聴き、人生のいろいろな場面を見る。<モロイ>は、とうとう<母>によって育まれた肉体をはく奪されてしまった。

だが、<幸いにも、この局面にあたって、くよくよするな、誰かが助けに来るさ、という声が聞こえてきた>。<天の声>なのか<神の声>なのか<悪魔の声>なのか、はたまた<私の声>なのか、定かではないが、とにかく<モロイ>はこの<声>によって、<救済>される。

<愛>が、とことんはく奪されてしまった以上、<モロイ>はもう<偽の世界>に未練はない。戻ることもないだろう。が、かわりに、今度は、この<声>が、<無の世界>での<モロイ>の指針となる。と同時に、おそらく、<偽の世界>を捨て去るために、そこでの<愛>と格闘したように、<無の世界>では、<無>を現出させるために、この<声>と格闘しなければならないだろう。なぜなら、この<声>は、<母>と同様、愛憎相半ばする、両義的な<何か>=<名づけえぬもの>だからである。

ちなみに、<無の世界>の記述は、<モロイ>をして、人類に世界の深淵を開示している。そこには、黙示録的に、宗教すら廃絶した、世界の荒廃したイメージが重ねられている。<そう、これは見かけはどうあれ、終わってしまった世界であり、終わったがために出現し、終わることによって始まったんだ。>

いったい、どういった世界が待ち受けているのだろう。<モロイ>以後の<マロウン><名づけえぬもの>の文字を追いながら、言葉を聞きながら、勇気を出して<無の世界>へと下りていくしかないだろう。

 

参照文献

<現代の世界文学 モロイ>訳者:三輪秀彦 集英社1969

<ベケット モロイ>訳者:安堂信也 白水社1969

<筑摩世界文学大系82 モロイ>訳者:安藤元雄 筑摩書房1982

<無の表現 表現の無>著者:内田耕治 駿河台出版社1990

<無の研究>著者:内田耕治 牧歌舎2016

<モロイ サミュエルベケット>訳者:宇野邦一河出書房新社2019

<初恋 メルシュとカミエ>訳者:安堂信也 白水社1971

<ワット>訳者:高橋康也 白水社1971

<マロウンは死ぬ>訳者:高橋康也 白水社1969

<マロウンは死ぬ>訳者:永坂田津子、藤井かよ 太陽選書1969

<名づけえぬもの>訳者:安藤元雄 白水社1970

<名づけえぬもの>訳者:岩崎力 中央公論社1970

 備考 

<極私的モロイ論>改訂版 関根俊和 2023年 5月 制作

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