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<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版

<日本灯台紀行 旅日誌>男鹿半島編

#8 二日目(3) 2021年7月15日

入道埼灯台撮影5

入道埼灯台撮影6

遅い夕食
 
<16:40 休ケイ>。断崖の下まで行って帰って来ただけで、それでも一時間くらいかかっていた。車のドアを半分くらい開け放った。熱中症対策だ。ペットボトルの水を飲んだ。ぬるくなっていて、まずい。太陽はだいぶ傾き始めていたが、まだまだ明るかった。このあとの夜の撮影についてすこし考えた。昨日の道路際のポイントがベストではある。だが、二日連続で同じ場所、というのも能がない。

暗くなるにつれて、灯台はシルエットになってしまう。ということは、灯台が資料室の陰に多少隠れても、さほど問題ではない。撮るべきは、灯台のシルエットを含みこんだ夕空、あるいは夜の空なのだ。となれば、広場なかばあたりの位置取りが、構図的にはバランスがいい。

<17:00 たらたら さつえい開始>。日没までには、まだ二時間もある。辺りは明るかった。だから、車の中でもう少しくつろいでいてもよかったのだが、日差しが弱まり、外の方が風が吹いていて涼しい。わざわざ狭い車の中にいる必要はない。三脚を手に持ち、<たらたら>と草深い広場の中に入って行った。

夜の撮影ポイントの目星はついていた。広場のやや後方、真ん中あたりに段差がある。その上辺りだろう。草深い中を、アカツメグサの、赤紫色のお花たちを踏みつけないように歩いた。だが、足元は多少暗くなり、よくは見えなくなっていた。たぶん、かなりの数、踏みつけているだろう。勘弁してもらうしかない。

段差の上の撮影ポイントに着いた。カメラのファインダーを覗いて、構図を確かめた。う~ん、バランス的には、灯台の右横に、例の、無粋な無線アンテナが入ってしまう。できれば、画面から外した方がいい。だがそうすると、灯台が右端により過ぎて、構図的なバランスが崩れる。

ま、昨日の夜は、ほぼベストの構図で撮っている。それに、今日も雲一つない快晴。空の様子も全く変わらない。ならば、多少冒険して、ベターな構図で勝負してもいいのではないか。決まりだな。今立っているベターな撮影ポイントを記憶しようと、目印になるものを探した。適当な物がなかったので、周辺の布置をしっかり記憶した。

さてと、<ゴールデンアワー>には、まだ時間があった。今一度、灯台を右に見ながら、ゆるゆると、広場の中をひと回りした。ベストポジションの道路際にも行って、念には念をと、ダメ押しとでもいうべき写真を撮影した。そうこうしているうちに、辺りがオレンジ色にそまってきた。ふと、この場所に、もう一度来てみたいと思った。今度は、季節のいい時期に、だ。車からチェアーを持ち出し、広場の真ん中や断崖際に座って、灯台の写真を撮ったり、海を眺がめたりしながら、地球の動きを感じるのも、いいなと思った。だが一方では、もう二度と、この場所に来ることはないだろうとも思った。

夕刻、六時過ぎに、広場中央の段差に戻ってきた。あたりを見回し、先ほど記憶した場所に三脚を立てた。昨日は、灯台と沈む太陽とを一つの画面に入れようと頑張った。だが、構図的に破綻していたので、モノにはならなかった。したがって、今日は、沈む太陽は無視して、灯台のシルエットと、その背景の夕空を主題にするつもりだ。

三脚にカメラを取り付け、アングルを決めて、撮り始めた。広場と灯台が、夕日に染まり始めた。昼間の暑さがウソのようで、海風が心地よい。だが、しだいに、辺りがざわざわし始めた。バイクや車のエンジン音、ドアの開け閉め、人の声。人影が急に多くなり、目の前を行ったり来たりしている。この雰囲気、この情景は、昨日と同じだ。観光客たちが夕陽を見に来たのだ。

そのうち、道路際に白いミニバスが止まった。なかから、熟年の女性が二人降りて来た。運転手も降りてきて、その場で、夕陽がどうのこうの、あとで迎えに来るだの、大きな声でしゃべっている。おそらく旅館か何かの送迎車だろう。そのうち、女性たちは、広場の遊歩道を歩いて、モニュメントの方へ行ってしまった。送迎バスは、いったんどこかへ消えたが、すぐに同じ場所に戻ってきた。年配の運転手が降りてきて、バスに寄っかかりながらタバコをふかしている。夕陽見物の女性たちを待っているのだろう。

送迎バスは、昨日、自分が三脚を立てた歩道の前に止まっている。そこが、灯台を撮るベストポイントなのだ、などとは、運転手が知る由もないから、おそらく、広場に入る遊歩道の真ん前、という理由で車を止めているのだろう。客へのちょっとした気遣い、サービスだな。ま、それにしても、昨日撮っておいてよかったよ。楽しみにしていた<ゴールデンアワー>の灯台撮影だ。すぐ後ろにバスが止まっていて、運転手がタバコをふかしている、なんてことは、許されないだろう。退屈まぎれに、運転手が話しかけてくるかもしれない。神々しくも美しい、静寂だ。俗世界とは一切関わりたくない。解放されたいのだ。

夕陽でオレンジ色に染まる<芝草>の広場、その後ろに、白黒の灯台が屹立している。まさに千載一遇の情景だった。だが、またしても雑念だ。目の前にちょろちょろと、さっきの<ドローン男女>が登場した。まだいたのか!なんとなく忌々しい気持ちで、眺めていると、なぜか広場からなかなか立ち去らない。写真の画面に入り込んでしまう。邪魔だな。とはいえ、彼らもまた、夕陽に染まる<入道埼>の光景を撮りに来たわけで、これは致し方ない。あきらめて、しばらく、ファインダー越しに、彼らの行動を見るともなく見ていた。やはり、服装や雰囲気からして、不釣り合いな熟年の男女だ。どういう関係なのか?いやいや、今はそんなことに関わっている場合じゃない。<ゴールデンアワー>の灯台撮影に集中しよう。

<ゴールデンアワー>の入道埼灯台は、昨日撮っていた。構図は多少違うが、今日も昨日同様、快晴で雲ひとつない。ゆえに、空の様子もほとんど変わりない。さほどの感動はなかった。

日没前後の撮影に関しては、歳なのか?カメラ操作の細かい事を全く忘れてしまった。測光ボタンくらいは、いじくりまわしたが、それ以上の操作ができない。ただ、モニターした段階では、まずまず撮れている。それに、画像編集ソフトで、空の色など、いかようにも補正できるわけで、<白飛び>してない限り、何とかなる。撮影に関して、かなり安易になっている自分を感じた。

そうこうしているうちに、黄色い小さな太陽が、水平線に近づいてきた。今日もきれいな日没だ。とはいえ、日没には多少飽きている。どこでも、だいたい同じ感じだ。昨日撮ったから、今日はいいだろうと思っていた。だが、いざ、この光景を目の前にすると、なぜか、撮っておきたくなった。

三脚のカメラは、灯台を狙っている。はずすのも面倒だ。もう一台のカメラを車に取りに行った。ふと気になって振り向くと、薄暗くなった広場の真ん中に、カメラ付きの三脚がポツンと立っている。不用心だなと一瞬思った。だが、辺りに人影なない。それに、車はすぐそこだ。少し早足になった。

もう一台のカメラには、重い望遠ではなく、軽い60mmのマクロレンズをつけてきた。多少でも荷物を軽くしたかったのだ。ただ、水平線に沈む太陽を撮るには、60mmのマクロレンズでは、遠目過ぎる。多少後悔したが、致し方ない。

二台のカメラで、一方は灯台を、一方は日没を撮った。そのほんの十分くらいの間は、さすがに、撮影に集中していた。なにものにも煩わされなかった。ただ、灯台の方はまだしも、日没の方は、なんだか色合いがよくない。レンズのせいなのか、カメラ操作のせいなのか、よくわからない。もっとも、太陽が小さすぎて、日没写真としてはモノにはなるまい。そもそものところ、日没写真をモノにしようとも思っていない。記念撮影、記念写真として、楽しめればいいんだ。

黄色い小さな太陽が、少しずつ少しずつ、水平線に沈んでいく。じれったいような、それでいて、なにかが終わってしまうかのような、郷愁が漂う光景だ。この時、広場に居たすべての人間が感じたにちがいない。神々しくも美しい時間だった。何枚も何枚も写真を撮った。

入道埼灯台撮影6

日没は、午後七時十五分頃だった。その瞬間、昨日と同じように、ため息と安堵感が広場に広がった。しかしすぐに、ざわざわしはじめ、人影が目の前を行ったり来たり、甲高い人の話し声や、車のエンジン音などが聞こえてきた。夕陽見物の熟年女性たちも、送迎バスに戻ってきた。運転手に、感動したとかなんとか、大きな声でしゃべっている。

太陽が水平線に消えた後は、一瞬、しらけた雰囲気になる。明かりが消えた瞬間、目の前が暗くなるのに似ている。だが、暗さに目が慣れると、しだいに回りが見えるようになる。瞳孔が、ニャンコの目のように大きくなるのだ。そのおかげで、いわゆる<ブルーアワー>が体験できる。日没後の残照で、空が水色から青、さらには紺碧に変わっていくのだ。もっとも、この<ブルーアワー>も昨日経験したので、さほど感動せず、ありがたみも感じなかった。

今日は、さらにその後、<ブルーアワー>が終わり、辺りがほぼ暗くなって、灯台の目が光り始めたところを、撮りたいのだ。ところが、空の色合いも消えて、さらに薄暗くなり、観光客が、三々五々、引き上げていったのに、灯台の目は光らない。写真に撮るような情景でもなく、妙にしらけた<待ち>の時間だ。ポシェットからヘッドランプを取り出し、額に巻いた。

駐車場の街灯が、オレンジ色にともっていた。夕暮れから夜に移行する半端な時間、早く帰らなければと急き立てる声が聞こえてくるような気もする。と、ほとんどシルエットになった灯台の目が光った。おっ、と思って、カメラのレリースボタンを指先で押した。ただ、光がむこう向きだ。ぴかりとは来ない。

灯台は、海に向かって光を投げかけている。当然だ。自分の位置する場所は、灯台の斜め左うしろであるからして、灯台の目はこちらまでは向かない。ただし、目が一番左側に来る時には、光っているのがちゃんと見える。それで十分だろう。なにしろ、目からの光線を撮るのは、至難の業で、かなり以前から諦めている事柄だ。とにかく、暗くなった広場で、目の光っている灯台を撮った。ま、写真の出来不出来は別として、課題は達成したわけだ。

日没からすで小一時間たっていた。空と海との境が見えなくなり、あたりは、ほぼ漆黒の闇だ。いや、灯台の資料室や駐車場の街灯で、真っ暗というわけでもない。時計を見たのだろう、夜の八時を過ぎていた。そろそろ引き上げだ。最後に、もう一度、ファインダーを見て、慎重にレリースを押した。

その際、左端に、なにか、針先ほど小さな白いものがはっきり見えた。先ほどからなんとなくは気づいていたが、あえて意識することはなかった。何しろ小さいからね。カメラから目を放して、実眼?で、そのあたりを見た。ああ~、灯台前の岩礁に立っていた物体だ。光を発するものでないことは、昼間、灯台の上から確認している。

その時、あっ、と思った。灯台から、斜めに光線が出ていて、この物体を照らしている。だから、闇の中でも見えたわけだ。ちょっと混乱した。灯台の目は、左右に移動しながら、海を照らしているのだろう。而して、古い言い回しだな、いま目にしている光線は、灯台から一直線に岩礁に向かっている。しかも、位置的に、灯台の目から発せられているのではない。では一体なんなんだ?

不明、わからなかった。いや、わかろうとしなかった。すでに、理解しようとする気力が失せていた。<入道埼灯台>の夜の撮影は完了したのだ。正直に言えば、早く宿に戻って、夕食にありつきたかった。朝から何も食べていないので、かなり腹が空いていたのだろう。体内のアドレナリンが低下した結果、血糖値の減少が意識された、というわけだ。

ちなみに、今この<不明>を調べた。入道埼灯台には、<入道埼水島照射塔>が併設されている。<照射塔>とは、陸地に近い所にある岩礁や暗礁を船舶に知らせる航路標識で、今問題になっている岩礁(水島)の物体は、その標柱である。つまり、入道埼灯台には、海を照らす動く目と<標柱>を照らす固定された目があったわけだ。たしかに、灯台正面?の写真には、動く目の下に、四角い窓があり、その奥に大きな照射器が鎮座しているのだ。カメラで例えるなら、二眼レフだ。いや、違うだろう。上の目が横に180度以上移動するのだから、機能的には<三つ目小僧>に近いかもしれない。

ヘッドランプで、地面を照らした。忘れもの、落し物がないか、確認した。大丈夫だろう。カメラを装着した三脚を肩に担いで、広場を後にした。一仕事終えた気分だった。駐車場には、一、二台、車が止まっていた。うち一台は、自分のレンタカーだ。そしてもう一台は、また遭遇?したよ、例の<ドローン男女>だった。まだいたのか!結局のところ、灯台に明かりがともり、一文字の光線が、漆黒の海を照らすところを撮影したかったわけだ。みるともなく見ていると、そのうち、二人して車に乗り込み出て行った。その後のことは想像しまい。

遅い夕食

宿に戻ったのは、八時半少し前だった。受付で美人の女将に、食事はいちおう用意しておきました、生ものなどがあるので八時半までに終わらせてください、と婉曲的な感じで言われた。だから、朝出かける時に、戻るのは八時半過ぎるかもしれない、と言ったではないか。少しカチンとした。だが、現に、部屋には夕食が用意されているのだし、女将の態度も、腹を立てるほどでもない。心の言葉は口にださなかった。それに腹ペコだったのだ。

部屋に入ると、座卓の上に、夕食がずらっと並んでいた。脇に敷いてあった蒲団のシーツや枕カバーなども、きちんと取り換えられていた。八時半を過ぎていた。<ゆりやん>が食事を下げに来るかもしれない。着替えもせずに、食べ始めた。食べ始めて気づいたのだが、おかずの数は、昨日と同じだが、その分量が多少多いような気がした。刺身もひと切れ二切れ、切り身の焼き魚もひと切れ、たしかに多い。昨日の<チップ>がきいて、サービスしているのかもしれない、と思った。

一皿ずつ完食していった。ので、しだいに腹が苦しくなってきた。最後の方は、なかば、意地になって爆食した。出された食物を残すことに、いまだに抵抗があるわけで、なにも頑張る必要などないのに、頑張って、すべてを完食した。やっぱ、ちょっと食べすぎたな!

八時半はすでに回っていた。内線電話で、食事の終わったことを伝えた。浴衣に着替えて、温泉へ行く準備をしていると、<ゆりやん>が食器類を片付けに来た。態度は昨日と全く同じ。控え目で、どことなくぎこちない。自分としては、こうした娘に、話しかけたり、お愛想を言ったりするのは苦手だ。ただ、好意だけは示そうと、お膳運びを手伝おうとした。だが、そのお膳が意外に重い。下手に持ち上げると、上に重ねてある食器類が崩れ落ちそうだ。躊躇していると、すかさず<ゆりやん>がそばまで来て、重いお膳を、少し腰を落として、ぐいと持ち上げた。なるほど、やはり慣れている。非力な爺が見栄を張ったわけで、恥ずかしかった。

二階の大浴場は、今日も貸し切りだった。癖のない温泉で、温度もちょうどいい。広い湯船でゆったりした。部屋戻って、<21:45 日誌 くつろぐ>。今日は自販機でコーラなどは買わなかった。というのも、冷水入りの小さなポットが、座卓の下にあったからだ。昨日はなかったのだから、おそらく、<ゆりやん>が部屋を掃除した際、コーラの空き缶などを見つけて、気を利かせたのだろう。

性格的に、だろうが、彼女は、そんなことは、おくびにも出さなかった。ふと、東北の女性を感じた。しかしこれは、一般化しすぎだ。東北の女性が、押しなべて<控え目>などということはない。ま、百歩譲って、そうした傾向があるような気もするが、やはり、おかずの増量や冷水ポットは、<チップ>の効能だろう。あるいは、<ゆりやん>を含めた、これらすべてのことが、まったくの勘違いかも知れない。十分あり得ることだ。

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