<Samuel Beckett Malone Dies>≪マロウンは死ぬ≫朗読#1-5 原作-サミュエルベケット 翻訳-高橋康也

叛通信Presents ≪マロウンは死ぬ≫朗読#1-5

<Samuel Beckett Malone Dies>

原作-サミュエルベケット

翻訳-高橋康也

音楽-エリックサティ ジムノペディ2

千葉県 犬吠埼灯台
    飯岡灯台



朗読台本 写真 朗読-関根俊和 
http://sekinetoshikazu.jp

備考
動画制作 2021年10月 動画公開 2021年11月12日
写真撮影地・千葉県 犬吠埼灯台
機材・nikonD800 nikonD800e
期間・2020年

参照文献
<マロウンは死ぬ>訳者:高橋康也 白水社1969
<マロウンは死ぬ>訳者:永坂田津子 藤井かよ 太陽社1969
<マロウン死す>訳者:宇野邦一 河出書房新社2019
<Malone Dies>SAMUEL BECKETT
Edited by Peter Boxall faber and faber

<現代の世界文学 モロイ>訳者:三輪秀彦 集英社1969
<ベケット モロイ>訳者:安堂信也 白水社1969
<筑摩世界文学大系82 モロイ>訳者:安藤元雄 筑摩書房1982
<無の表現 表現の無>著者:内田耕治 駿河台出版社1990
<無の研究>著者:内田耕治 牧歌舎2016
<モロイ サミュエルベケット>訳者:宇野邦一 河出書房新社2019


参考文書1
<マロウンは死ぬ>朗読に際して 関根俊和

<ベケット小説三部作>の朗読を企図したのは、2018年の中頃だった。ほとんど思いつきといってもいい、この無鉄砲な行為は、それでも確実に実行されてしまい、<モロイ>朗読17最終章は、2021年の4月に完成した。

足掛け4年の歳月がかかってしまったのは、生来の飽きっぽさや、怠け癖が出てしまったからだが、そればかりでもない。難渋な内容に、時として、朗読行為そのものに懐疑的になったり、素人同然の朗読に、我ながら嫌気がさして、やる気がなくなったり、正直、途中で何度も投げ出したくなった。その都度、<モロイ朗読>を棚上げして、遊び呆けていたのだ。

だが、幸か不幸か?遊び呆けている月日に比例するかのように、しだいしだいに<モロイ朗読>が重みを増してきて、棚上げしていた、その棚がいまにも壊れそうだ。遊んでいても、もう気が気ではない。

ということで、また、しぶしぶながら、<モロイ朗読>にもどっていく。その繰り返しで、4年の歳月が過ぎてしまった。もっとも、<モロイ朗読>を放棄して、遊んでばかりいたら、4年という歳月は、痕跡すら残さず霧散していただろう。ま、それも一興ではあるが、やはり後悔したような気もする。

今年の四月に、一応、<モロイ>朗読は完了した。しかし、完了したとたんに、新改訂版を出さずにはいられない衝動に駆られた。とくに、第一部一章、二章は朗読しなおさねばなるまいと思った。それから、背景画像の入間川の風景写真が、あまりにもひどい!拙すぎて、我慢の限界を超えているものが多数ある。

とはいえ、とりあえずは、ひとつの大きな山は越えたのだし、少しの間は、<ベケット>の朗読から離れて、ゆっくりしたかった。それに、いざ、新改訂版を作るといっても、その作業の細密さや膨大さを思うだけで、気持ちが萎えてしまった。

ま、<モロイ>の新改訂版を作るよりは、ふたつめの大きな山に挑戦するほうが、まだ気が楽だ。すなわち<マロウンは死ぬ>の朗読だ。ところが、読みだしてすぐに理解したことは、死の床に就いている<マロウン>の言葉が、重すぎる!

あと二、三週間で死ぬことになる老人のモノローグだ。少なくとも、あと十五年くらいは生きるつもりでいる自分との、実存的接点が見いだせない。<マロウン>の言葉を普通に朗読すること、ないしは<AI>さながら日本語で音声化することは、本意ではない。自分のやるべきことではないのだ。

<モロイ>より<マロウン>の方が気が楽だ、と思った浅薄な自分が情けなかった。<マロウン>朗読=発語は、自分に、<死>がリアルに感じられる時まで無理だ。そう結論して、再度、棚上げした。

それならばと、愚かな思考は、再び<モロイ>の新改訂版へと向かっていった。そして、ふとした思いつきで、というか、単純に体力的、気力的な問題で、一回の朗読を<章≒約三十分>ではなく<節≒約五分>にしてみようと思った。

この発想は、さらに、思いもよらぬ方向へと展開した。すなわち、これまで本棚で眠っていた<モロイ>の英語版を、電子辞書を片手に、日本語版=安藤元雄訳と突き合わせるという、いわば、<ベケットの文章>そのものへと接近する道筋が示されたのだ。

むろん、英語などは、ほとんどわからない。だが、わからないなりに、原文と訳文とを、照らし合わせるという作業は、知的な好奇心を呼び覚ましたし、なにか、謙虚に勉強しているような気になり、気持ちが清々しくなった。

そして、<モロイ>新改訂版のイメージも、ほとんど一瞬のうちに決まった。背景画像は、入間川の<風景写真>以後に撮った<花写真>に変更する。さらに、英語の原文をその上にスクロールする。朗読は一節ずつにして、一回の時間は五分程度。サティーの<ジムノペディ>は、従来通り、最後に三分ほど流す。著作権の問題が気になったので、このフォーマットで動画を作り、ユーチューブでテストした。<公開>可能だった。

2021年の七月、八月と、真夏の暑さの中、エアコンの効いた自室から、ほとんど外に出ず、<モロイ1-1>新改訂版の制作に集中した。その甲斐あって、自分なりに、満足のいくものができた。と、そこで、また思いついた。この方式、このフォーマットで<マロウン>も朗読できるのではないかと。

いや待ってくれ、<マロウン>朗読は、自分との実存的な接点が見いだせずに棚上げしているのではないか?ところが、なにかが変わってきたような気がするのだ。<マロウン>の寿命はあと二、三週間だが、ベケット自身は、その後、四十年近く生きている。なのに、死の床に就いている老人の言葉にあれほどの重みがあるのは、一体どういうことなのか。

おもえば、ベケットは、若い時から実存的な<死>と背中合わせの中で生きてきたのだ。だとするならば、<あと十五年は生きるつもりでいる>などという、アンポンタンな妄想は捨てて、あんたも、自分の置かれている状況と対峙すべきだ。つまり、来年で七十歳になり、しかも、心臓系の<基礎疾患>があるわけで、ある意味、いつ死んでもおかしくない状況だろう。たんにそのことから、目をそらしていただけなのだ。

目をそらしても、そらさなくても<死>は確実にやってくる。若い頃に、深く深く理解したことではなかったのか。むろんそれは、<形而上>的な問題であり、実存的な問題ではなかった。だから、<死なず>に、あるいは<死ねずに>にこれまで生きてこられたのだ。

しかし、いまや<死>は、もうそこまで来ている。これは比喩ではないのだ。<モロイ>新改訂版に取り組む作業の中で、なぜか、こうしたことを、今さらながらに実感した。<ベケット>の朗読をやっていられるのも、そんなに長い間じゃない。いや、数か月後に突然の終わりを迎える、という可能性すらあるのだ。

<ベケット小説三部作>の朗読を企図して、およそ四年がたった。ひとつの作品に四年かかるとすれば、二作目の<マロウンは死ぬ>、三作目の<名づけえぬもの>の朗読には、最低あと八年はかかるだろう。さてと、八年後に、自分が生きていて、しかも、朗読ができる心身の状態が維持されている可能性はどのくらいなのだろう。正確な数字などは、どうでもいい。その可能性は、そんなに高くない、ということだけで十分だ。

暑さがおさまった、2021年の九月に入って、<マロウンは死ぬ>の朗読作業を再開した。残されている時間は、さほど長くはないのだ。

ちなみに、<モロイ>朗読の際に書いた、<極私的モロイ論>に擬して、<極私的マロウン論>を書くつもりではいる。ただし、これから始まる、<マロウン>朗読の作業が、ある程度軌道に乗り、なにか、書くべき言葉が頭の中に浮かんできたらの話だ。早急にでっち上げても、意味がないだろう。2021-9-16 記

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