半熟玉子は人類に最大公約数的な幸福をもたらすか
アレルギーの総合商社たる僕は、日常のどこにリスク因子が潜んでいるか、それなりにビクビクしながら生活を送っている。いつぞやの血液検査では犬の毛、猫の毛、ほこり、あんな植物やこんな植物の花粉、全部あかんとの結果が出たこともある。必ずしも数値通りの反応が出るわけではないし、犬や猫とも問題なく渡り合っているが、全体評価が平均500くらいのところ、8000くらいの数値を叩き出したのを目の当たりしたときは、「でしょうね」という感想が浮かぶばかりだった(正確な数字はうろ覚え)。
つい先日も手渡された資料がほこりっぽく、テキメンに全身がかゆくなって仕事どころではなくなってしまった。顔を洗おうが、シャワーを浴びようが、かゆみ止めを塗りたくろうが、一向に状況は改善しない。薬箱をひっくり返し、抗アレルギー剤を流し込んでようやく事態は沈静化したが、関係各位には迷惑をかけた。
というわけで、表題の件である。体感的にはこの10年くらいの間に「ゆで玉子は半熟であるべき」といった向きが事実上、(そこまで確たる意思があるかどうかは別にして)外食産業における共通解として定着してきた気がする。黄身は箸を入れたその瞬間に流出すべきであるし、丼なりなんとかライスにトッピングされたそれを、やや置いてニチャニチャとかき混ぜたうえで口に運び、「あ、マイルドになりましたね〜」と感想を述べるまでの流れは、もはや様式美になっている。ことオムライスにおいては、しっかりと火入れしたものの方が珍重されるようになった感すらある。
ここで僕が言いたいことは極めて明快だ。半熟なら半熟であると、事前に表明しておいてはもらえまいか。ググればいいのか。インスタを見ればいいのか。確かにそうではある。が、そこのところに話を持っていってしまうと、こんな時間から発作的にパソコンに向かった意味が霧散してしまう――ともあれだ。幸いにしてじんましんが出るほどではないが、僕とてゆるやかな卵アレルギーがある。黄身が緑に変色する程度にまで熱を入れたもの、要するに煮抜きレベルでないと、のどのあたりがイガイガしてしまうのだ。こちらからすれば、まるでマイルドな出来事ではない。
もっと強烈なアレルギー反応が出る人は、そもそも卵自体を頑として避けるであろうが、僕のようにグレーな領域にいると始末が悪い。半熟玉子が主役ではなく引き立て役として神出鬼没に登場するケースが多いことは、こちらの読みを狂わせる要因になる。「半熟ですか?」と尋ねるその発想すら差し挟まぬまま、当然のような顔をして半熟がやってくるリスクは、もはや回避できないものになっている(わざわざ聞くのもどうかと思う)。そして何より、店の側がよかれと思ってやっているであろうことを考えると、なんだか悪いことをしているような気にさせられる。かくもこの世は生きづらいのである。
そう思うと、あらかじめ半分にカットされた半熟玉子、あれはきちんとディスクロージャーができていて殊勝でありますね。かたや温泉玉子がまるまるトッピングされているようなのは、まあ少なくとも僕からすればダメだ。白身のトロトロでさえ、イガイガの原因になってしまう。ええ、分かります。提供する側から見れば、こういうことを考え出すとキリがないことは。毎日が披露宴、往復ハガキの返信を受けるというわけにもいくまい。
別に飲食店を、半熟ラバーを腐す意図はないし、結局のところが僕が嗅覚を磨いて、メニューの行間から半熟玉子の出現を鋭く察知できるようになれば、すべてが丸く収まるだけの話だ。半熟ならみんなうれしい、時間のないときのランチはラーメンに決まっている――この手の考えにも、決して異論を投げかけてはならない。それではモテない。ただ、悲しいことに根本は変わっていない。主張の強度が和らいできたことをもって、自己弁護の材料にしてもならない。かくも自らはめんどくさいのである。
ところで過日、普段は行かないタイプの飲み屋に行った。いわゆるコジャレ系の店で、5年前の自分なら厳然たるポリシーに従って絶対に入店することはなかったと思われるが、ありがてえ友人関係の前にはやすやすと主義主張を曲げられるようになっていた。いろいろの小皿料理が供される。いろいろの小皿料理には、ほぼ必ずといっていいほどパクチーが添えられているのだった。
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