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ライターは誰もが読書家か(反語)

何かしら書きつけようと、noteの編集画面を開いたところ「読んだ本の感想をnoteに書いてみませんか?」と表示されたのだが、僕はライターにしてはかなり読書量が少ない方だと思う。これはもう単純に恥ずかしいことながら、事実は事実なので仕方がない。最後に読了できたのは、畠山理仁の『黙殺 報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い』。これだけはなぜか徹夜してまで読み切ってしまったが、レアケースである。山のような積読のなかには、一生涯読まずに終わるものもわんさか出てくるだろう。読書量に比して蔵書ばかりがやけに多い、ひとたび火事を起こせば火種には事欠かない、そんな人生を歩もうとは思ってもみなかった。

趣味を聞かれて「読書」と答えられることは、退屈なようでいてやはり理知的だ。率直に憧れすら覚える。読書でもって理論武装をするような人もいるのだろうけれど、僕の場合は理論をベッドの周りに何もかも脱ぎ散らしている感がある。週末だけの秘密の部屋で、ただ全裸で立ち尽くしている感がある。ひるがえって、公共空間において文庫本に目を落としている人というのは、早急にインテリとの評価を下すまではいかないにせよ、一目を置いてしまう。彼ら、彼女らを向こうにこちらにできることといえば、できるだけ人前ではスマホを触らないこと。これに尽きる。

先だって、電車の向かい側に座った女が、スマホでゲームに興じているのか、やたらと画面をカチカチ言わせていた。長いネイルがディスプレイに当たる音だ。あまり美しい音の風景とは思えず、「これでもか! これでもか!」と虚空を見やる以外に太刀打ちのしようがなかった。同じ音なら、文庫本のページを繰るかすかな音の方がいいに決まっている。しかし、もはや電車内で本や新聞を読む人というのは、目にすることの方が難しい。

とはいえ、読書量が多いことがすなわち文章力につながるかというと、必ずしもそうではないことも経験的に知ってきた。読書家というのは行間の含意をくみ取る努力をする。難解な文章であればあるほど、努力の強度は増す。深く読み込む行動が当然のことになってくると、いざ筆を執ってみたときに読み手に努力を強いるような文章を書き上げてしまう。要は多少リズムに問題があったり、修飾表現の範囲が判然としなかったりしても違和感を持たないのだ。こうした構図で、読書家による読書家のための複雑怪奇、珍妙無比な文章が形づくられるケースが出てくる。憶測の域を出はしないが、なんとなくそんなような気がしている。これが商業ベースの文章の場合だと、文学作品ではないので平易な日本語を否が応でも心がけなければならない。

ただ、ライターという職業にある以上は、世に出回るさまざまの文章に触れる機会を多く持つに越したことはないのも確かである。振り返ってみれば小学校時代、読むこと以上に書くことに快楽を感じてしまったことがすべての発端だと思うが、今年はもう少し読む習慣をつけていきたい。もう1ヶ月経ったけど。

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