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品川と火鍋①

東京での暮らしも夏のはじまりを迎えた頃、嬉しい報せが届いた。地元の大学時代の1つ上のサークルの先輩が、転勤で東京勤務になったとのこと。先輩は先輩でも1つ上だと仲良し先輩そのもので。不思議なことに2つ年上の代の人たちより気やすさが全く違う。そんな先輩からPHSに電話をもらって久しぶりに新宿でお酒を飲んだ。目についた居酒屋に入って焼き鳥とキュウリの叩きをつつきながら生ビールを飲んでいると、大学生活のゆるさを取り戻したような、東京の大人の一員になったような両方の気持ちで満たされた。

そんな先輩の会社はふるさとに本社を持つメーカーで、この度東京の支社にご指名がかかったそうだ。毎日営業に明け暮れる私の仕事のグチにも、「新人なんだから多少の我慢はしないと」などと訓示めいたことは言わず、「うんうん、分かるよ。大変だね。頑張ってるね。」と話を聞いてくれるので甘ちゃんでも自分の中で本当にキツイ時に救われたことを、今でも本当に感謝している。

そんな先輩の会社には、中国から来た社員も何人かおられるのだという。中でもキムさんだったかシュウさんだったか失念してしまったのだけど、仮にキムさんのお宅に呼ばれて夕飯をご馳走になることになった。「金曜日だから大丈夫?」と聞いてくれた先輩に「私は土曜も会社だけど、朝はそんなに早くないから大丈夫」と答えて、キムさんと奥様が暮らすマンションに先輩と2人でお邪魔した。食卓には、大きな鍋を真ん中に、周りにも手作りのお惣菜がぎっしり並んでいてとても興奮した。しばらくこんな家庭風の卓を囲んでいない。もっとも中国の方の家庭料理のご相伴に預かるのも初めてだったのだけど。キムさんの奥さんが鍋の蓋を開けると、辛そうなあったかそうな湯気がもうっと立った。真っ赤な色のその鍋は「火鍋」というらしい。初めて食べた火鍋は、あったかいどころかハフハフ熱くて旨味いっぱいの野菜や肉や海鮮がいっぱいで、勧められるままに沢山食べた。

大満足の一夜ではあったが、翌朝いつも通り9時過ぎに曙橋のアパートのベットの上で目を覚ましてまず思ったことが「お腹が痛い」だった。キムさんの奥様の料理のせいではない。食べ慣れない辛いものをたらふく食べたからだ。しばらくチクチクしていたお腹がドコドコいい始め、変な話で申し訳ないがトイレから出られなくなった。しばらく通り過ぎるのを待っていたが、どうにも回復のきざしが見えず、脂汗をかきながらPHSを手にして会社へ電話をかけた。電話口の上司に「急で猛烈な腹痛で少し遅刻したい」と恐る恐る伝えたところ「そうか。じゃあ治り次第出てくるか。無理はしなくていいからな。」とあっさり了承され心から安堵した。

さて先日、郵便局から消印有効日ギリギリで新潟の放送局に送った作文の返事は「ご縁がなかったけど今後の活躍を祈ってくれる」というものだった。少し落胆はしたものの、慌てて書いた内容は自分でも納得できる出来でもなかったのであまり気にしないように過ごしていたところ、恵比寿のアカデミーに新しい採用情報が掲示してあった。前回とは違う新潟の放送局が、電話予約をすれば当日履歴書ひとつで面接をしてくれるというものだった。新潟づいてて少し面白がりながら、応募しない手はない。すぐに電話をかけると、いくつか提案された面接の実施日は全て平日の昼間だった。「正社員で勤務しているので、日曜しか難しいのですが」とお願いしてみたものの、「こちらも担当者が新潟から東京まで向かうので指定日しか面談出来ないんですよ」申し訳なさそうに言われた。意を決して「では、何とかさせて頂きます」と答えた。させて頂くじゃないよバカ、と今では思いつつ、水曜日14時の面接に決まった。

さて、いざ面接の日は決まったものの会社を休めようはずもない。そこでハタと思い出したのが、先日のキムさん宅の翌日の腹痛事件のことだった。今回も、急な体調不良で会社に電話をかけて面接を首尾良く終えて出勤しよう、あるいは会社を休んでしまおう。そう思ったらもう試験に受かった気になってきた。

いざ水曜日の朝10時になった。体調はすこぶる好調で、昨夜書き上げた履歴書をクリアファイルに収め、学生時代にバイト代をつぎ込んで買ったアナウンサー試験用の夏物の薄い水色の半袖スーツを一度眺めてから、会社に電話をかけた。お腹が痛いのか熱っぽいのか設定は曖昧だったけど、出来るだけ具合が悪い時のことを思い出しながら「おはようございます。すみません今朝起きてから風邪気味でして」少し迷ったあとに続けて「今日は休ませてもらってよいでしょうか」すると、火鍋の時と同じ上司が電話口でこう言った。「風邪かあ。それなら一回出社してから会社の近くの病院に行きなさい」耳を疑った。前回同様、すんなり了承されると思っていたので大いに慌てた。「あ、びょ、病院。わかりました」

さあ困った。これから通常通り11時に出勤して上司に顔を見せてから病院へ行くふりをしたとしても、かかる時間は長くて2時間だろう。面接は品川で14時からなので、終わって新宿の会社に戻ったとして確実に15時は回る。病院にしてはかかりすぎだ。しかも、「診断書取ってこい」などと言われたらどうしよう。諦めるか、面接。いや、これまでの書類面接だけで終了した数々の試験を思い起こすにつけ、企業の人と直接会えるチャンスだ。行かない選択はない。

迷ったあげく、とりあえず会社に行くことにした。いつものグレーのパンツスーツを身につけ、水色の半袖スーツは紙袋に入れた。汗がじっとり額に噴き出し、本当に具合が悪くなってきた気分になった。

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