見出し画像

神学生による随筆 「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい」~新型コロナ

新型コロナ禍中にあって思うこと
G志願者

”COVID-19”と命名された「新型コロナウイルス」が世に現れて約8カ月経った。現在所属している共同体には高齢の会員もおり、「うつすと命に係わる」とのことで、気が気ではない。部屋から出るときは「マスク着用」。日中は「院内を換気」。外出した時は勿論、院内であっても部屋に戻ったら「まず手洗い、うがい」。喉に違和感があれば即「イソジンでうがい」。体力維持も重要とのことで、20分程の散歩後は「顔を洗って目も洗う」(目から感染することもあるらしいので)。買い物等の際には「除菌液持参」。買ってきたパンや牛乳なども「除菌」。これがすっかり「日常」になってしまった。

まだまだ「未知のウイルス」である。最新の情報をチェックした上で、最悪の事態を想定し、最善の対策をするのが望ましい(「最新」「最悪」「最善」で「三最」?)。それは、「自分の身を守るため」だけではない。「大切な人」「共にある仲間」「感染すると重篤化しやすい人」を守るためでもある。これを忘れないように努めている。

ある大学のラグビー部で8月中旬に60人の集団感染が発生した、と新聞で知った。激しくコンタクトするスポーツなので、感染防止も容易ではないだろう。驚いたのは、大学に謝罪を求めたり、批判したりする電話やメールが殺到した、ということだ。「大学に責任がある」「医療機関に負担をかけた」「市民や世間に迷惑をかけたのだから謝れ」という。

現在、「感染経路不明」の新規感染者の割合は、6割前後という。半数以上が「いつ、どこで感染したか分からない」状況である。しかも、「このウイルス」は潜伏期間が2週間程度と長く、潜伏期間中も感染力を有し、感染しても無症状であることも多い。「充分な対策をしている」と自負する人が感染した、という話も聞く。このような状況で「感染した奴は謝れ」と責めるのはどうか。

PCR検査を受ければ、「あなたは陽性です」と言われる可能性は、誰にでもありうる昨今。当方も先日、宣教地へと帰国される某司祭が出国のためPCR検査を受けた際は、結果を注視していた。「陰性」だったと知り、ホッと胸を撫でおろした次第である。師が「陽性」であったならば、恐らく当方も同様だったであろう。専門家は「自分も感染しているかもしれない」という前提で感染防止対策することが重要と指摘している。しかしこれには「想像力」が必要である。「今、目の前で話しているこの人も、感染者かもしれない」と想定して防御するのも「想像力」が要る。さらに、「三密」からは外れるが、「接触感染」も指摘される「COVID-19」にあっては、「ここにもくっついているかもしれない」とイメージするにも「想像力」が求められる(韓国やニュージーランドでは、包装資材や冷凍食品のパッケージ経由で再拡散したとのこと)。陽性と診断された人が公共の場でマスクもせずに騒いだり歌ったりしているならば、「バイオテロ」と非難されて然るべきであるが、「検査を受けてはいないが、きっと自分は大丈夫」と過信してマスクなしで騒ぐことも、人前であれば控えるのが望ましい。この状況で「私は100%陰性」と断言できる人はいないはずだからである。

そうなると、「感染した奴は謝れ」と他人を責める人は、「自分は感染していない」と過信していることになろう。が、実際に検査をしてみたら「陽性」だった場合には、きっと「悔いる」のではないだろうか。「私はあなたを責めてしまいましたが、自分も感染していると知って初めて、他人を責めるべきではなかったと痛感致しました。どうかお赦しください」と・・・。

ここまで書いて、『新約聖書』に「似たような話」があるのを思い出した。

イエスが神殿の境内で民衆に教えていると、イエスを陥れようと狙っている律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえた女を連れて来て、真ん中に立たせ、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問う。イエスは即答せず、かがみ込んで、指で地面に何か書き始める。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起し、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えると、また身をかがめて地面に書き続けられる。すると、これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエスと女だけが残る。イエスは身を起こし、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と問うと、女は「主よ、だれも」と答える。するとイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と告げる箇所だ(『ヨハネによる福音』8・1~11参照)。

 この女性を連れてきた人達は、「この女は罪人だが、自分には罪はない」と過信していたのであるが、イエスから「罪を犯したことのない者から石を投げよ」と言われてみると、あれこれと思い出され、石が投げられなくなって、皆立ち去ってしまった。「悪いことをしたことがない人」は、まず「いない」。なのに、私達は皆、「こいつは悪い奴だ」と責める。神は、この「偽善」を見抜いておられる。自分の罪を真に自覚出来ている人は、人を責めることをしない。「自分には、人を責める資格はない」と知っているから。

 同じように、この「新型コロナ禍」にあって、皆等しく「感染リスク」に晒され、医療関係者方にご厄介になる可能性を共有しているからには、一足先に罹患された先輩方や「天使のように献身的」な医療関係者を差別するような言動は避けるのがよいのではないだろうか。図らずも罹患してしまい、苛烈な苦しみを孤独に耐えている、遠い「兄弟姉妹」達を窮地に追いやって後悔することなく、安心して罹患できるように。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?