聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第16主日〉
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた(マルコ6・34)
自分とは違う他者を理解し、その人の苦しみや痛みに寄り添おうとするとき、わたしたちは往々にして、自分自身の限界に突き当たります。どれほど、相手を受け入れよう、相手の力になろうとしても、その思いだけではうまくいかないことが度々です。自分も同じように痛み、傷ついているので、それが他者に対する憐れみや優しさ、抱擁力のある理解を持てなくさせてしまいます。結局、他者は自分とは異なる存在なのだから、関わることを止めようとさえ考えてしまうかもしれません。
しかし、イエスは違います。イエスにとって、他者の苦しみは自分自身の苦しみであり、それゆえに、イエスは《大勢の群衆》を前にしたとき、その一人一人の苦しみや痛みに、はらわたをえぐられるような思いをしました。それができるからこそ、イエスは《真の牧者》なのでしょう。
今日の第一朗読のエレミヤの預言では、ユダの歴代の王である人間の牧者たちの、苦しむ民への薄情に対する神の怒りが述べられています。そして、神は人間の王には出来ないことを、独り子であるイエス・キリストに託したのです。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う」(23・5)。
イエスが見つめる大群衆の中に、わたしたち自身もいます。わたしたちも、自分自身ではどうすることも出来ない傷ついた部分や痛みをもって、イエスの前に、飼い主のいない羊のように佇んでいるのです。そして、それは弟子としてイエスの側にいた使徒たちも同じでした。ある意味、民の牧者として立てられた使徒たちも、わたしたちと何ら変わらない限界をもった傷ついた人間だったのです。
宣教から帰ってきた彼らが、精神も肉体もかなり疲弊していたことを見てとったイエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と彼らに勧めました。イエスから与えられた使命を果たすということは、実は、かなり心身共に労することが多く、時として、その困難さに圧倒されてしまいかねないものであると言えます。イエスはそれを否定しません。それだけに、イエスに従う者には、多くの人々から離れて静かに祈り、神との親しい交わりの中で憩い、休む時と場所が必要な場合があるのです。
ところが、ことはそう予定通りには運びません。人々が彼らを先回りして追いかけてきたので、弟子たちはイエスとともに働くことを余儀なくされました。これもまた、イエスに従う者が直面する一つの《試練》です。
アシジの聖フランシスコも、そのような神によってもたらされる摂理的な《試練》を体験しました。そしてまた、その意味を十分に理解していました。それは、フランシスコが数人の兄弟たちとアシジに近いリヴォ・トルトと呼ばれる場所で、みすぼらしい小屋に住んでいたときのことです。その小屋は、みすぼらしいとはいえ、兄弟たちが宣教から戻り、それぞれ休んだり、祈ったりするために大事な庵でした。ところが、ある日、その大事な庵に招かれざる一人の農夫が驢馬と一緒にやってくると、兄弟たちに構わず居座ってしまいました。その時の様子を『三人の伴侶による伝記』は、次のように描いています。
(
居座った農夫は)兄弟たちに追い返されまいとして、驢馬を連れて中に入り、驢馬に言いました。「入れ、入れ。ここで好きにやろうじゃないか」。聖なる師父は、農夫の言葉を聞き、その意図を理解すると、心を掻き乱されました。特に、〔農夫〕が驢馬と一緒になって大きな騒音を立てて、沈黙と祈りに専念していたすべての兄弟たちを悩ませたからでした。そこで、神の人〔フランシスコ〕は兄弟たちに言いました。「兄弟たちよ、驢馬のために宿を用意し、人々の訪問を受けるために、神はわたしたちを召し出されたのではありません。わたしたちは時として、人々に救いの道を説き、救いのための助言を提供し、何よりもまず第一に祈りと感謝に専念しなければなりません」。そこで、先に述べた納屋を後に(しました)〈『三人の伴侶による伝記』〉※1
ここで、わたしたちがフランシスコから見習うべきは、フランシスコが招かれざる客の理不尽さに心を掻き乱しながらも、そこにはっきりと神の摂理、つまり神の意志を見出し、それを寛大な心で受容して、自分たちの安住の場を手放してしまったことです。
イエスの従う者にとって、こうした自らの安住の場を手放して、神の国の福音を証しする旅に出向いていくことは、避けることの出来ないことです。しかし、それは、わたしたちと共に歩んで下さるイエスという真の牧者がいてくださるからこそ、わたしたち限界のある人間でも出来ることなのではないでしょうか。そのようにして、イエスとともに、わたしたちは神の憩いを心から味わうのです。
※1『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』フランシスコ会日本管区訳・監修、教文館、2015年、198頁。