聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第5主日〉
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15・5)。
喩えの好きなイエスは、今日の福音(ヨハネ15・1-8)では自らを〈ぶどうの木〉と呼び、わたしたちをその〈ぶどうの木〉の〈枝〉に喩えています。そして、この〈ぶどうの木〉の持ち主であり、〈枝〉の手入れをする〈農夫〉こそは〈父〉、つまり〈天におられるわたしたちの父〉なる〈神〉であると言います。
ところで、実際のぶどう園の農夫にとって、〈ぶどうの木〉が〈実〉を豊かに成らすかどうかは、死活問題でしょう。農夫にとっての〈ぶどうの木〉は生活のすべてを懸けた財産であり、それだけに農夫の関心のすべてはこの〈ぶどうの木〉に注がれています。
そして、同じように、〈父なる神〉にとっては、〈ぶどうの木〉である〈御子〉(=イエス・キリスト)は、その関心のすべてなのです。しかし、その〈ぶどうの木〉が豊かに実を成らせるかどうかは、〈枝〉の剪定にかかっています。つまり、イエスの〈救いの業〉の実りが豊かにあるかどうかは、その〈枝〉であるわたしたち一人一人の存在にかかっているのです。
このように考えてみると、わたしたちの人生は、たわわに実った葡萄をもつ〈枝〉のように、〈永遠のいのち〉という豊かな果実を結ぶために神様から与えられたものだということがわかります。と同時に、この果実を結ぶ〈枝〉は、〈木〉であるイエス・キリストという存在と切り離してはあり得ないのです。〈木〉と〈枝〉は、同じ樹液を養分として、同じ構成要素から成る、互いが互いを必要としている一心同体のものです。イエスとわたしたちは、互いに相手から絶対に切り離されてはならないのです。
ところが、イエスとわたしたちの関係性には、一つの重要な〈ポイント〉があります。それは、普通の木の枝と違って、わたしたちには〈自由意志〉があることです。そして、その与えられた〈自由意志〉をもって、〈木〉であるイエスと同じ養分で生かされることを望むこともできるが、同時に自らそれを拒むこともできてしまうのです。
もし、わたしたちが自らイエスとの絆を拒むならば、それは、イエスとわたしたちにとって、互いに不幸極まりないことです。それは絶対に避けなければならないことです。
アシジの聖フランシスコは、このことをよく理解していました。おそらく、彼の残した文章の中で最も有名な『太陽の歌』の中で、フランシスコは次のように述べています。
大罪の内に死ぬ者は、不幸です。あなたの、いと聖なる御旨のうちにいる人々は、幸いです。第二の死が、その人々をそこなうことは、ないからです(黙示2・11、20・6参照)。〈『太陽の歌』〉※1
フランシスコにとって、イエスと間違いなく繋がっているという確かなしるしとは、〈神〉の〈聖なる御旨〉のうちに生きているということでした。つまり、それは、〈父なる神〉への絶対的な信頼のうちにすべての御旨に従ったイエスのように、神の送られるすべての出来事を〈感謝〉と〈平和〉の心で受け入れることです。
私の主よ、あなたは称えられますように、あなたへの愛のゆえに赦し(マタ6・12参照)、病と苦難を耐え忍ぶ人々のために。平和の心で耐え忍ぶ人々は、幸いです(マタ5・10参照)。その人たちは、いと高いお方よ、あなたから栄冠を受けるからです。〈『太陽の歌』〉※2
これはある意味で、キリスト教的な霊的生活にとって一つの到達点であり、これこそが、豊かに実を結ぶ〈枝〉の姿だと言えるでしょう。それだけに、この実り豊かな状態は、神からの恵みなくしては実現しえない、〈超自然的〉なことでもあります。
そこでイエスは言われるのです。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(15・7)。
〈ぶどうの木〉であるイエスは、自らの〈枝〉であるわたしたちを、正にご自身の身体の一部として大切に愛してくださっています。ご自分の内に流れる〈いのち〉であり〈愛〉である養分、つまり〈聖霊〉をとおして、わたしたちに豊かな実りをもたらせようと配慮してくださっているのです。わたしたちが、この〈聖霊〉によって生かされている〈枝〉であるならば、わたしたちは農夫である〈天の父〉に何を望まなければならないかを、自ずと理解するでしょう。
※1 『アシジの聖フランシスコの小品集』、庄司篤訳、聖母文庫、1988年、54頁。
※2 同書、52-53頁。