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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第12主日〉

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった(マルコ4・39)。



風のない、穏やかな日、湖や池の水面がさざ波一つ立てず、まるで自然の大きな鏡のように周囲の景色をそのまま映し出すことがあります。そのような場面に遭遇したとき、その間だけ、何も混じり気の無い透明で澄み切った別次元の世界に居るかのような感覚になることはないでしょうか。この大自然の摂理を、わたしたちの霊的生活に当てはめて考えてみると、今日の福音の箇所がよく理解できると思います。

イエスは、ガリラヤ湖畔で、多くの人々に向かって〈神の国〉について話しをした後、弟子たちとともに舟に乗って〈向こう岸〉へと向かいました。〈向こう岸〉は、異邦人たちの住む土地で、〈神の国〉の福音を聞くことを待っている人々のいるところです。イエスとともに舟に乗り込んだ弟子たちは、今し方終えたばかりのイエスの説教の余韻に浸っていたのでしょうか、あるいは、これから出かけていく異邦人の土地での宣教に思いを馳せていたのでしょうか。

ところが、舟が沖に漕ぎ出してまもなく、激しい風が吹いて湖が荒れ狂い出すと、弟子たちは今にも舟が沈んでしまうのではないかと恐れ始めました。ところが、イエスはというと、そのような状況にあっても、艫の方で微動だにせず眠っているのです。弟子たちはイエスに向かって叫びます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(4・38)。

慌てふためく弟子たちの懇願に、イエスはよっこらしょと起き上がり、風を叱り、湖を黙らせると、瞬く間に風はやんで、湖は静かな凪になりました。イエスは「なぜ、怖がるのか。まだ、信じないのか」(4・40)と、弟子達を諌めます。

イエスはなぜ、弟子たちを諌めたのでしょうか。それは、イエスが一緒に舟に乗り込んでいるのを知っていながら、弟子たちが突然の艱難に動揺し、恐れたことに対する、イエスへの〈信頼〉の不足を咎めるものであったのでしょう。

しかし、この一連の出来事の中で、弟子たちにも見習うべき点が一つあります。それは、彼らがイエスに向かってありのままの気持ちを表わして、その助けを願ったことです。弟子たちは、艫に寝ているイエスを起こせばなんとかして下さると、心の奥底では信頼していたのです。

わたしたちの人生においても、こうした予想だにしないような艱難に遭遇することは必ずあります。そして、わたしたちの心はそうした状況に、千々に乱れてしまい、冷静な判断ができなくなり、失望や落胆の感情の渦に巻き込まれてしまうことがあるかもしれません。そのようなとき、わたしたちも、わたしたちの心の中に居てくださるイエスに向かって、「イエス、助けて下さい。私はこの感情の渦に巻き込まれてしまいます」と叫ぶことは、大切なことでしょう。

ですが、霊的生活において、もっと大切で価値あることは、実は、このような状況のとき、艫にいて眠っていたイエスの姿に倣うことなのです。これは、少し人間離れした、非感情的な行動に見えるかも知れませんが、ここに、わたしたちの霊的生活のめざす到達点があります。このときのイエスの心は、外部の状況がどのような酷い嵐に見舞われ、身の危険を感じるような事態であったとしても、その内部は、全く静まりかえった凪のように、穏やかな落ち着いたものでした。そして、この凪が実現していたからこそ、イエスの心には澄み切った父なる神の現存が、その心の面にそのまま映し出され、イエスはまったく心配する必要がなかったのです。

アシジの聖フランシスコは、何よりも、このイエスの内に実現していた心の〈凪〉を自身の内にも実現させようと心を砕いた聖人です。彼のいう、〈平和〉とは、まさにこの心の内に実現した〈凪〉のことなのです。そしてこの〈凪〉が実現するとき、その人はイエスそのものである善徳のすべてをその内に抱いていると、フランシスコは言います。

愛と知恵のあるところに、恐れも無知もなく、
忍耐と謙遜のあるところに、怒りも心の乱れもありません。
喜びの伴う清貧のあるところに、渇望も貪欲もなく、平安と瞑想のあるところに、不安も放浪もありません。
住居を守る主への畏れがあるところに(ルカ11・21)、敵のつけこむ隙はありません。
慈しみと分別のあるところに、過剰も厳しさもありません。
〈『訓戒の言葉』〉※1

フランシスコが何よりも大事にした、この心の〈凪〉の状態を、わたしたちも実現できるように、わたしたちの心の艫でいつも安らいで居てくださるイエスに、内的なまなざしを向けていたいものです。


※1『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、47-48頁。

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