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神学生の研究「北原怜子の生と思想ーゼノ修道士と共に」第一部

蟻の町で奉仕した北原怜子についての研究/蟻の町のマリアと呼ばれ親しまれた尊者

◇コンベンツアル聖フランシスコ修道会の神学生による研究の第一部です。(3回シリーズ)

Ⅰ、本稿のアプローチ

2015年1月22日にエリザベト・マリア北原怜子は、ローマ教皇フランシスコにより尊者の称号を受ける。北原怜子は、第二次世界大戦後、東京・隅田川沿いに家も仕事も失った人々が集まって作った「蟻の街」で、廃品回収や子供たちの世話などを献身的に行い、蟻の街の住人として生活している。英雄的徳を人々の間で実行した怜子は、はたしてどのような価値観、霊的な感性を持っていたのだろうか。彼女の生き方の根底にどのような霊的な側面を見出すことができるのだろうか。この論文では、彼女の残した手記、および怜子を知る人々の証言をもとに、北原怜子の蟻の街での活動からうかがうことのできる怜子の霊的な姿を分析して行くことを目的とする。

Ⅱ、蟻の街との出会いの前

Ⅱ-1、清らかなるものへの憧憬
北原怜子は、清らかなものに対して惹かれるという感性を持っていた。怜子の手記によると、彼女は幼少期の頃から「何かこうはっきり分からないのですが、非常に浄らかなものに、漠然とした憧憬を持っていました。 [1]」と書かれている。その清らかなものとは具体的に何を指しているのか、彼女自身も漠然としたものとして捉えていたようである。
清らかなものへの憧憬をもつ幼少期の北原怜子にとって、最初に憧れの対象となったのは、「着物に緋の袴をつけたお巫女さん[2]」であった。怜子の父である北原金司の家の代々の職業は白装束に身を整えた神主であったことが憧れの理由ではないかと自己分析する怜子は、彼女の七五三を祝うために両親とともに参拝した明治神宮で目撃した巫女の姿を忘れることができないという思いを、手記の中で綴っている。
怜子は、この巫女の姿を心に留めながら学生時代を過ごしたのである。第二次世界大戦の戦争の真下、学徒動員で工場へ通うようになっていた女学生の間で様々な事故が起こり、また、昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)に通う怜子の周囲には、戦後の影響や、地方からの上京して来たことによる雰囲気に呑まれ、開放的な異性との交際をする学友たちをしばしば見ることとなった。そうした経験の中、彼女の頭からは、清らかな巫女の姿が消えることはなく、周囲の人間の軽率な行いを見るたびに、何か清く美しいものに憧れる気持ちが、より一層強くなっていった。戦中と戦後の様々な困難にあっても、清らかなものへの憧憬を失うことはなく、むしろ、その憧憬を強めていった。
 昭和女子薬学専門学校へと通う女学生時代、怜子は友人と二人で山手にあるカトリック教会を訪れている。この時、初めて聖母マリアの像を目撃した彼女は「今まで、お巫女さんにあこがれていた私の気持ちが、より強いものに引きつけられる[3]」のを感じていた。しかし、このような想いは、この時だけのものたったようである。
怜子の父である北原金司は、受洗前の怜子が教会堂に対して、周囲の環境と融合している様に、なんとも言えない魅力を感じていたことを述べている。北原金司は、彼女の持つ清らかなものへの憧憬が、カトリック教会へと向けられていく様を次のように述べている。

その静かな環境の中に、黒装束の神父さんや、白装束の修女さんなどの姿が見えたりすると、たまらない憧憬心を助長させていた。それはおそらく父の家の代々の職業が、白装束に身を整えたであろう連想でもあり、幽邃な神社などに見かける巫像とも重なり合うものだった。それゆえにある時は惹きつけられるように教会堂にもぐりこみ、祭壇をみて、その荘厳さに圧倒されたという連鎖反応にも繋がるものだった。[4]

 幼少期の頃から清らかなものへの憧憬を持つ怜子は、カトリック教会の中にも言い知れぬ清らかさを感じ、巫女の姿を通して感じていた清らかさを、後に出会うカトリック教会の司祭と特に修道女の姿に重ね見出していったのである。清らかなものへの憧憬は、彼女をべリス・メルセス宣教修道女会と出会わせ、カトリック教会への入信へと導いていく。

Ⅱ-2、べリス・メルセス宣教修道女会との出会い
北原怜子はべリス・メルセス宣教修道女会の修道女たちを慕い、また、彼女自身もべリス・メルセス宣教修道女会に入会することを生涯希望していた。怜子とべリス・メルセス宣教修道女会との出会いは、1949年に怜子の妹である北原肇子が、べリス・メルセス宣教修道女会の運営する光塩女子学院の初等科に入学したことがきっかけとなる。同年の五月、肇子がミサへ向かうのに同伴した怜子は、べリス・メルセス宣教修道女会の修道女と出会うことで、彼女の清らかなものへの憧憬をより一層震わせるものとなる。べリス・メルセス宣教修道女会との出会いを怜子は自らの手記に記している。

五月のある日、妹が、日曜日の御ミサを受けに行く時、偶然、私もついて行きました。その時、日本の修道女で、公教要理を教えていらっしゃる方に出会いました。私はその方にお目にかかって、お姿を見たとたんに、七五三のころから憧れていたお巫女さんと同じ、あるいは、それ以上の何か引かれるものを感じました。[5]

怜子は、幼少期から抱いていた清らかなものへの憧憬を、べリス・メルセス宣修道女会の修道女の姿に見出している。彼女はべリス・メルセス宣修道女会の修道女たちを、尊敬し、慕っていた。このことは彼女の書く手記の中に確認できる。後に綴られる怜子の日記にも同修道女会の修道女たちに対して「皆、自然に心の中を打明たい親しみを受けた。[6]」ことが記されている。怜子は、妹の肇子に付添って光塩女子学院へと通ううちに、同校を経営するべリス・メルセス宣修道女会に出入りして一層親近感を抱き、修道女たちに惹かれ、カトリック教会へと入信することとなった。怜子はカトリック教会の中に見出される素朴な美と、質朴な生活に憧れを抱いていた。べリス・メルセス宣修道女会で要理教育を受けた怜子は、受洗を通して強い想いを抱くようになる。それは、カトリック教会の信者として、また、一人の社会人として、「何か世の中に貢献することをしたい、するべきである」という愛徳の業を行う熱意である。

私は、洗礼を受けたその日から、何か世の中に貢献することをしたい、したいではなく、すべきである、それが信者として、又社会人としての義務である、ということをはっきり感じるようになりました。[7]

受洗後の怜子は、べリス・メルセス宣教修道女会の修道院で開かれていた、サンタ・マリア会に入会し、横浜のベビー・ホームの慰問や、教理用紙芝居の絵を書く手伝いなどをしていた。しかし、彼女はこの時、「自分のほんとうになすべきことを充分にしていない[8]」ということを感じていた。彼女は、カトリック信者としての生活が始まって非常に早い時期から、困難に直面している人に愛徳を示している。北原怜子が愛徳の行為を行ったのは、イエス・キリストのように生きようとしたからである、と怜子を知る人たちは証言する。べリス・メルセス宣教修道女会のシスターアンヘレス・マリア・アギレ[9]は、北原怜子の示す愛徳について次のように述べている。

要理に対する彼女の理解は、現在行われているようなものではないとしても、完全なものであったことは明らかです。怜子さんは、キリスト教の心を感じていました。
キリスト教の本質、つまり愛が本質であることを把握していたからです。それは、キリストの愛であり、兄弟たちへの愛です。わたしは、このことを断言できます。[10]

北原怜子は、受洗の前、洗礼準備の要理において既にイエス・キリストの愛を生きることの重要性を理解していた。このことが、怜子の蟻の街での活動へと繋がっていったのである。(続く)

[1] 北原怜子『蟻の街の子供たち』、聖母の騎士社、1989年、26頁。
[2] 同書、26頁。
[3] 同書、28-29頁。
[4] 北原金司『マリア怜子を偲びて―その愛は永遠に』、八重岳書房、1971年、286頁。
[5]『蟻の街の子供たち』、30頁。
[6] 松居桃楼『蟻の街のマリア』知性社、1958 年、224頁。
[7]『蟻の街の子供たち』、31頁。
[8] 同書、32頁。
[9] 1907 年生まれ。1949 年に尊者の妹の肇子氏が光塩女子学院に入る頃から、尊者を知る人物で、洗礼準備のための要理も教える。尊者が最も敬愛したシスターの一人。
[10] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),Roma,1997, p.377

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