見出し画像

神社の伝説を指す岩に「よいしょこらしょにどっこいしょ」 〜猿賀公園③

さて、前回に引き続き、猿賀公園内を巡っていきます。

猿賀神社の拝殿脇から公園につながる道があり、そこから胸肩神社がみえます。


胸肩神社

蓮の咲く湖の真ん中に鎮座します。

美しい彩色の御祭神

平川市のホームページによると御祭神は市杵島姫命。元々は弁天様だったようです。こういう例はよくありますね。美しい彩色を施された御祭神が祀られていました。彩色の具合からして、最近塗り直されたと思われます。それだけ大切にされている証拠ですね。

この池には片目の魚が出現していたことでも有名だそうです。柳田國男先生の『日本の傳説』によれば全国でこうした例を確認できるものの、先生が知っている限りだと北限だということです。ましてや、その当時(1932年)には実際にいたそうです。

また、総じて、片目の魚は眼病治癒などのいい意味で用いられているケースがほとんどですし、寺社の周辺での伝説がほとんどだということからするとよくある、そこに棲んでいる魚を獲られないための話だったのだろうと推測できます。

さらに、さらっと調べた限りだと、魚同士で食べあって眼がなくなるケースもあるようですので、1932年に出ていた片目の魚はきっと他の魚に食べられてしまったのでしょう。そう考えるとただ悲しいお話になりますね。

猿賀公園 碑の分布図

猿賀公園内は大体こんな感じに碑が置かれています。
まずは2つの句碑からみていきましょう。

増田手古奈句碑・高浜虚子句碑

胸肩神社の鳥居あたりに句碑が2基並んでいます。

増田手古奈句碑

増田手古奈句碑

増田手古奈の句碑には「ただ佳句を志すのみ老の秋」と書かれ、猿賀神社の社務所ができた記念と増田手古奈の長寿を祈願して作られたとあります。
昭和60年の碑。

客観写生の句を得意とした人です。誰の字か書かれていませんが、昭和60年ままだ在世の頃なので、本人の字でしょう。

高浜虚子句碑

高浜虚子句碑陽
高浜虚子句碑側

もう一基、高浜虚子の句碑が立っています。虚子は手古奈の師に当たる人物です。
「代馬は大きく津軽富士小さし」と刻まれます。

側面には

昭和三十七年九月八日 猿賀神社宮司山谷正 尾上町観光協会 十和田俳句会 蓮雑魚吟社 黒石市 石工 倉嶋

と刻まれます。そして、この字が興味深く、なんとも瀟洒です。

石碑群

地図でふるさとセンターと書かれた横には木々が生い茂っており、そこには碑が乱
立しています。

忠魂碑

なかでもいい字だなと思った碑です。

下に書かれた文を読むと、日清・日露戦争の戦没者を悼むものだとわかります。

ゴツゴツとした石に刻まれた故か、その1字の大きさに圧倒されます。誰が書いたかがはっきりしないのがどうしても残念です。

とてもインスピレーションの湧く時でした。アクリル絵の具を使って書いてみました。

忠魂碑はどれをみてもその雰囲気に圧倒される書がおおく、その理由は石碑の大きさと字の大きさによるものだと思われますが、この碑はそれほどの大きさでもないにも関わらず、伝わってくるものがあります。それは筆者の技量によるものでしょう。

猿賀石

明治天皇の行幸記念碑の隣に一際大きな岩があります。

田村麻呂将軍東夷追討の節、夷の悪大将大丈丸を猿賀にて誅し、首を此森に埋候
付、鬼塚と申候云々(永錄日記)
猿賀神社内に森有り、是は田村麻呂将軍、岩木山の悪鬼を誅し、御頭を此所に埋云々(木立日記)『大丈丸を岩木山の悪鬼とす』と記されてある如く、此森は小田ノ森にして東方二丁餘、即ち田村麻呂大丈丸の死骸を埋め、大石を共上に置く

『坂上田村麻呂の史話』

とあるように猿賀神社の由緒にもある夷狄であった大丈丸の頭を埋めたところになります。『坂上田村麻呂の史話』の記述だと、岩木山神社周辺に夷がいて、田村麻呂がこれを平定し、神々をお祭りしたとあります。

ということは、猿賀神社も岩木山神社も政府の力を見せつける為に作られたと捉えられる気がします。まあ、そもそも、坂上田村麻呂は青森までやってこなかった説もあるそうなので、よくわかりませんが。笑

そばには「軍神」橘周太中佐ゆかりの梅の木もありました。

公園の北側に移動していきましょう。

鏡池の蓮を眺めながら。

樹魂・圃場整備記念碑 〜田澤吉郎書

岩に支えられるように横たわっている碑。…よくこんな碑を造ったなと思わず驚いてしまいました。木に隠れ、なにか異様。

田澤吉郎書

どことなく、上條信山風のある字です。田澤吉郎氏は国務大臣を務めた人です。

碑陰

裏には草木の成長や地球環境への願いが書かれていました。
石工は工藤兼光。

もう一つ、「豊かな流れ人を和す」と書かれた碑があります。

猿賀堰土地の堰とは水を堰き止めること。圃とは庭園や運動場を指す漢字です。
この公園が完成した記念に造った碑だとこの短い文から想像できます。

碑文に田澤吉郎とありますので、てっきりその人の字かと思いましたが、裏には書 西谷逸泉と刻まれていました。

上の字と比較すると似てないこともないような気がしますが、こちらは唐時代の楷書の影響が強いようにみえます。

「豊流人和」なんともいい言葉ですね。

工藤甲吉歌碑

作者の詳細は碑陰に詳しく書かれていました。

工藤甲吉・本名礼作(青森市在住、大正二年尾上町高木生まれ。元新聞記者)
昭和三年川柳を知り「尾上川柳社」を創立。小林不浪人、長谷川霜鳥に師事。川柳みちのく吟社同人の傍ら、東京、大阪の著名川柳雑誌に投句活躍した。また東奥日報に「世相川柳」欄を開設。
現在「川柳塔」参与、「川柳塔みちのく」顧問
平成五年十月 建立 石工 佐藤広満

碑陰より

書はおそらく本人によるもの。
句のもつ柔らかい暖かさを直に表現しているようです。

次回は猿賀神社を出て、隣の盛美園に足を運んでみます。

前回記事はこちらです。

参考文献

小館衷三 著『津軽ふるさと散歩』,北方新社,1984.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9539739 (参照 2024-09-28)
橋本賢康 著『坂上田村麻呂の史話』,大同館書店,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1719337 (参照 2024-09-28)
柳田國男 著『日本の傳説』,春陽堂書店,1932.11(10版:1936.5). 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1874049 (参照 2024-09-29)


気に入っていただけましたらサポートよろしくお願いします。幅広い地域の碑を探しに出掛けるのに使わせていただきます!