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戦後復興を支えた食糧確保の為の開墾。その背後には隠れキリシタンの想いが残るのか? 〜宮地・葛原開拓紀念碑

岩木山を背にして東に向かうとりんご畑が見えてくる。

Google Map より

青森らしい風景を横目にしばらくまっすぐ進んでいくと、突如として開けた場所に一基の石碑が建つのが目にはいる。

立地場所

近くに目印になる場所がないが、少し開けた退避スペースがある。
弘南バスの「羽黒神社前」から北に徒歩2分程度に見えてくる。

ちなみに退避スペースには「おらが里見どころ」と書かれた標が立っていて、ここからの岩木山の眺めがいいよと教えてくれる。

覗いてみた。…。たぶんこういう意味ではないですよね。笑
でも綺麗な緑が目に優しい。

碑の文字 高山松堂書

額 開墾紀念

全体的に線が深々と刻まれている。おそらく機械で彫られたものだろうが、線の脈絡が切れてしまい、原本の雰囲気を遠ざけているように思う。

碑の見た目ではボテボテとしてポツポツとした、一見するとお世辞にも上手い書とは言いがたいが、前述したように機械で画一的に彫ったことを踏まえてみるともっと豊かな字に観えてくる。

この人の隷書はとても特徴的で表現性に豊かだが、楷書は王道を踏まえつつもはるかに時代の古い魏時代の鍾繇や王羲之の楷書を学んだと思える。

Googleで鍾繇体と検索した結果

父親が虞世南風の楷書を遺しているので、隷書学習も相まって自然とゆったりとした雰囲気が醸成したのかもしれない。

※父親の文堂の楷書はこちらの護摩堂碑をみて下さい。

本文を読む

碑文には

抑モ比ノ開墾地ハ寛政年間ヨリ宮地村ニテ愛護セル地二シテ明治十五年産馬共同社ヲ設立シ畜産ヲ計リタルモ明治四十四年創設セシ保護組合ニヨリ大正二三年ニ亘リ栗ノ造林ラ完成シ地方稀ニ見ル美林ナリシ処ナリキ大東亜戦争終戦ト共ニ急速ニ逼迫セル食糧ノ欠乏ニ堪エス永遠ノ救済ヲ計ル為メ開墾組合ヲ組織シ昭和二十一年三月二日県知事並営林局長ニ開墾ヲ出願国有林ノ貸下ヲ受ケ栗松約三千石ノ伐採後組合員九十三名ニ土地ヲ分割鍬下ヲナシ晩秋ノ風雪早春ノ烈霜ト闘ヒ辛苦艱難遂ニ開墾ヲ完成セリ調フニ此ノ事業ノ達成ヲ見タルハ関係官庁及団体ノ支援ニ依ルト雖モ亦以テ弘前営林署長農林事務官井上省一氏ノ明快ナル裁断ト村長三上重造氏ノ絶大ナル指導鞭韃ト聡明ナル見職ト尽瘁ニ俟ツシモノ実ニ多シ茲ニ地方産業開発ニ関スル事績ノ梗概ヲ石ニ勒シ永ク後世ニ伝ヘントス

碑文本文より
  • 宮地村には江戸時代から保護されていた森林地帯があった

  • 明治~大正期にかけて栗の植林が行われ美しい森林となっていた

  • 終戦後の食糧難対策として開墾が検討された

  • 昭和21年に開墾組合が結成され、国有林の借り受けと開墾を実施

  • 93名の組合員が過酷な作業を乗り越え、開墾を完遂

  • 関係機関の支援に加え、弘前営林署長と村長の適切な判断と尽力が大きく貢献

  • この開墾による地方産業開発の功績を後世に伝えるため、記念碑の建立が決定された

このようなことが書かれている。

現在このあたりに栗が残ってはなさそうだが、第二次世界大戦後の食糧難を救うために93人もの人が「鍬下ヲナシ、晩秋ノ風雪、早春ノ烈霜ト闘ヒ辛苦艱難」を経て開墾してくれたおかげで今があるようです。

開墾者93人の先祖とは?

『新岩木風土記 : 津軽の源流 続』には興味深い内容が書かれている。この地域一体は江戸時代の禁教令の中に津軽追放の憂き目にあった隠れキリシタンの居住地であったというのだ。しかし、無惨にも時代は流れ、「歴史の一コマとして世に隠れ、流れて断絶していく。」

その数百年後、第二次世界大戦で日本は壊滅的被害を被る。
そこからの戦後復興の凄まじさの中、食糧難を解決するために身を投げ売った青森のとある一集落の人々には、自分たちが隠れキリシタンを先祖に持つことなど知りもしない方が混じっていたのだろう。

そう思うと、不必要に深く文字が刻みこまれたこの碑には艱難辛苦を乗り越えた人々の想いとともに、異郷の地で静かに生を終えた人々の滾る想いが秘かに込められたように思えてならない。

参考文献


柴田重男 著『新岩木風土記 : 津軽の源流』続,津軽書房,1985.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571524

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenshi-mado33.pdf


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