舞台を創る①-ディストピアとユートピア-
はじめに
筆者はディストピア小説-本質はBL小説であるが‐を創ることを夢見ている。本Noteにおいては、話を創るまでの記録としたい。
何故、ディストピアにこだわるのかというと、社会的興味関心と歴史学を志し、中途半端で終わった者の後悔が相まっている。歴史学というものは過去を省み、現代のわれわれの立ち位置を確かめ、未来の行動の指針、ひらたく言い換えれば、「もっと未来をよくしていこう」というものであると筆者は強く認識している。しかし、現実はうまくいかない。資本論を著したマルクスの思想や社会主義の誕生、やがて訪れる共産主義の発展。その共産主義国家の大国であったソビエトは瓦解し、やがて資本主義国家(であると筆者は認識している)ロシアへとなった。
さて、人というものの本質は獣ではない。三大欲求を満たすために生きているのではない。であれば何か、そう幸福、つまりは精神的充足を追求する動きというものが行動指針として顕著にあらわれてくる。ディストピア、つまり見せかけの幸福でくるまれた社会体制を考えるのであれば、人類の足跡を振り返り、政治体制や思想などを包括して考える必要が出てくるのである。以降、「舞台を創る」では、参考文献と共にディストピアというものを考えていきたい。
理想郷の辞書的な定義
本稿に入る前に、ユートピアとは何か辞書的な定義を述べておきたい。日本国語大辞典第十巻からの引用である(小学館)
以上が辞書的な定義である。つまり一般的に使用される「ユートピア」は②の定義となる。なお、筆者は「ディストピア」は否定の意味を持つ「Dis」を「pia」につけたものであると考えていたが、英語では「dystopia」と綴るのである。勉強不足であった。
つまり、ディストピアについて考えるならば、トマス=モアの「ユートピア」を読まねばなるまい。入口としてはそこからである。しかし、筆者には大学で受けた哲学の講義で古代ギリシアの哲学者プラトンの「国家」について舟をこぎながら聞いていた記憶がある。すなわち、理想の国家=ユートピアについて考えるのであれば、これも必読リストに入るのである。
何故、こんなことを考えたのであろう。過去の自分を悔やむが、好奇心という歯車は止まらないのである。
次回以降、これらを鑑みてNoteを更新していきたい。
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