麻道日記②
俺は二人と相対して壁にもたれて座った。
よろしくお願いします、と頭を下げた。
二人はチラリとこちらを見て、まあしばらく様子見だと言う様に息を深く吐いた。
「お兄さん、何やったの?」
と、太ったヤクザが、頭を壁にもたげたまま、面倒くさそうにきいた。
「大麻です」
と言うと、じいさんは途端に興味を無くしたように、移動して腹筋を始めた。
「大麻だけ?うちの若いのが駒込の方で捌いてた気がするな。」
と、そんなことで捕まったのかと、後半はヤクザも独り言のように呟いた。
俺からは聴くような空気でもなく、皆それぞれ床に寝そべって漫画雑誌を読み始めた。
ここから、おれの留置生活がはじまった。
留置所では、まだ容疑者なので当然労役は
ない。一日でやることは取り調べで、上へ行くこと以外は基本的待機だ。ただし携帯はもちろん電子機器は持ち込み禁止。だから、寝そべってぼーっとすることしか出来ない。
俺がじいさんの読んでる「ドカベン何とか編」の表紙をを見ていると、朝と昼に2冊交換してくれる。今日はもう終わりだ、と東北訛りで教えてくれた。
俺が横になり寝ようとしたら、寝すぎると夜寝れなくなるぞ、とボソッとじいさんが呟いた。それでも俺はそのまま眠りに堕ちた。
俺は当時ポストプロダクションで働きながら、ラップをしながら、ロックバンドでギターを弾いていた。2,3ヶ月に一回は自分達主催のライブをやって、半年に一回はepくらいの音源をリリースしていた。完全なインディペンデントでPDCAを回していた。と聞こえはいいが、リソースは労働対価。つまりみんなそれぞれ仕事をもってやっていた。ガチで自分たちの動員だけだと、3,40人くらいの小さな売れないバンドだった。
当時はオルタナが、終わりに差し掛かりポストロックが台頭していく2000年初頭。俺たちも、ギター2本とドラムという妙な3ピースで、渋谷を中心に活動していた。
別に売れるとか、そういうつもりでやってないと何かに言い訳しながらライブでハイになる堕落を楽しんでいた。
それでも、元来のメンヘラ気質が俺を人から遠ざけるようになった。ライブでハイでアウトプットしたら、そのあとの打ち上げはパスして逃げるように家に帰ってストーンした。
そんなときに浅川に出会った。
浅川は俺の仕事の、下請けのマネージャーだった。俺は吹き替え版制作の進行をやっていたのだか、その仕事のひとつで、ディレクターが希望する声優のスケジュールを押さえるのだが、ドキュメンタリーなんかは、プロダクションに投げて、予算内で配役もセリフ分けもプロダクションて決めてもらうことがある。制作側は楽だし、プロダクションはおいしい。そんな時は事前にディレクターとマネージャーがしっかり打ち合わせするから、何度か顔を合わせるうち、話すようになった。
同じ歳というのも大きかった。
「天田さん、こっち系好きでしょ」
と、親指を唇に、小指を伸ばして、パイプを作って笑いかけてきた。
「え、分かる?」
「だって、ダニエル・ジョンストンのT-シャツきて、700ヒルのキャップは分かるでしょ。」
そこから仲良くなるのは早かった。
当時、浅川は幡ヶ谷の分譲賃貸で、2LDKのマンションに住んでいて、プロダクションのマネージャーをやりながら、色々モデルとか集めた結構でかい音楽イベントも打っていた。
元々鹿児島のヤクザの息子で、鹿児島でそのイベントでトラブって、地元に居られなくなり東京にほとぼり冷ましにきているとのことだった。将来的には自分で芸能プロダクションを作りたいとよく言っていた。
それでも地元のつながりで、浅川の元には常にお薬全般がサプライされていた。浅川の家では、それをほぼタダで吸わせてもらっていた。
浅川は俺と違って、草だけじゃなくて、とにかく手当り次第何でもいくから、その反動なのか、常に安定剤をネームプレートの中に忍ばせて、仕事場で会ったらそれをガリガリかじっていた。
もうギリギリなんじゃないのか?俺は深い不安を覚えた。