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写真でみる駿河敬次郎先生の写真


1921年金沢にて。中央お母様の膝の上が駿河先生

先生が旧制中学の入試を受けた時は「旧士族かどうか」を記入する箇所がありました。どんな立場の方にも平等に接する先生の原体験は、どのようなものだったのでしょうか。

1944年、内科香川講師を囲んで。駿河先生と学友
大日本帝国陸軍中尉時代

駿河敬次郎先生の同世代の多くが戦死しています。同世代が亡くなる中「偶然」が重なり生き残った駿河先生は、どんな心境だったのでしょうか。




駿河先生は戦後すぐの文字どおり物もないお金もない時代に小児外科という前人未到の分野を切り拓いてきた方です。先生は胆道閉鎖症など難病の治療に取り組み、何万人という赤ちゃんの生命を救ってきました。
賛育会病院では外科部長として、墨田区の地域の子供達を救ってきました。


順天堂大学では、日本で初めて小児外科を開きました。

小児麻酔 里吉光子教授と共に


「絶対絶命のピンチに立たされた時、特に一緒に手術をさせて頂いた時など、先生の身体中からメラメラと危機から脱出するための実に人間離れした執念がほとばしりでるのを見たことが何度かある。」
(宮野武、順天堂大学名誉教授)

小児外科医として、道なきところに道を切り拓いてこられた駿河先生。大学を退官された後も、内科医として八重洲クリニックで70-80歳代も、仕事を続けます。


駿河先生は、ご自宅の近くにノアクリニックという病院を90歳を過ぎて新たに開業されました。リタイアするタイミングはたくさんありました。しかし、ご自分の体力にあわせて、100歳を超えた今もできる範囲で医療行為を続けています。


追伸
駿河敬次郎先生ドキュメンタリー映像製作のクラウドファンディングを2022年3月1日〜4月9日の40日間実施しております。



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