関口 拓真
朝、目が覚めたのは8時50分くらいだったと思う。1週間前まで時差ぼけあってか、6時くらいに目が覚めていた。それから1週間ちょっと。気づけば9時前まで寝ている。朝起きるのが遅くても不都合はない。時間も余るほどあるのでゆっくり起き上がりコンフレークを食べ、朝を迎える。 10時くらいに練習に出かけて2時前に帰宅した。トマトパスタとポークステーキを食べて買い物に出かけた。 バケットと人生初めて自分用に花を買った。些細なことだけど花と一緒に買い物をすると皆少し笑顔になり、親切にして
前編を投稿してすっかり後編を忘れていた。失態失態、、 確かクウェートからの続きだっただろうか。無事にクウェートに到着。 空港が新しくホッとした。 次はウィーンに向かう。荷物を再チェックインしないといけない関係で一度出国する必要があった。ビザカウンターで相談すると空港側が再チェックインの手続きをやってくれるとのこと。しかし不安だった私は別の空港職員に訳あって出国したい旨を伝えるが同じ返答だった。又、到着ターミナルから出国ターミナルに移動しないといけない関係でどうやら13時に迎
レースレポート スタートが切られ暫く牽制が続いた。海外であれば、必ず誰かがアタックする。冷静に進む日本のレースは緊張感に満ちていた。2週目に入りペースが一段と上がる。きつかったけれど冷静な判断できる範疇にいた。2、3週目とハイペースが続き終始、自分が望む位置で位置取った。同時に有力選手の動向に注力した。後半、8周目に入り心拍が下がらずにいた。登りで千切れ、下りで追いついた。表すならお湯が吹きこぼれる寸前の状態だった。9周目秀峰亭の登りで完全にオールアウト。一度お湯が吹きこぼれ
人生にはいろいろなことがあると思う。 避けようもなく、まるで自分の人生が決まっているかのように思うことがある。 羽田空港の滑走路を飛び立った時、まだ自分は何も決まっていなかった。 具体的に。具体的に、住む場所も決まっていなかったし、リヨンに到着した後の明確な予定もなかった。例えるなら導かれるようにフランス-リヨンに向かっていたと言っていいだろう。予定がなくとも、日本にいてもそれは変わらないし、だいたい日本に自分の居場所はなかった。ただ導かれるようにリヨンに向かっていた。予定
注 確か3月半ばくらいに書いた記事です。その点、ご承知おきください。 10月にベルギーのレースレポートを投稿した以来、ブログ(Note)に限らずSNSに中々投稿できずにいました。(特筆するネタが思いつかなかったので)ご心配をおかけしてすみません🙇今回は最近の私生活について投稿したいと思います。 先ず今までの生活と違うのはバイトをしていること。それは社会経験という意味合いもあれば挑戦(自分が望む)に対してお金が必要であり直接的な、お金を稼ぐという意味合いもある。 自転車競
2024年シーズンはSCULTURA TEAM 2023で走ります! 約3年間乗った2019年モデルSCULTURA 8000eから新型SCULTURA TEAM へ乗り換え。時代はリムからディスクへ。 今まで乗ってきたSCULTURA 8000eと何が違うのか。 2020年残夏。自粛期間が少しずつ無くなり本格的に自転車競技を始めた頃。以前乗っていた2019年モデルSCULTURA 8000e(略称スクル)を親が買ってくれた。KBASE店長の加藤さんからディスクブレーキ
余談が長いので飛ばし飛ばし読んで頂けると幸いです。 本当に激しいレースだった。 余談が長くなるので初めに。 前々日から移動が始まり、初日はマルセイユからリール近郊の街まで移動した。リールはフランス北部、ベルギーとの国境付近にある。距離は1000km以上あったと思う。隣には一切英語を話さないマッサーが運転してくれた。(英語が嫌いというわけでは無さそう。ただYesですら、本当に一切も喋らない。)2時間ほど足を慣らして初日は終わった。 2日目はベルギーに入国し、レース会場であ
朝、目が覚め五十嵐さんの訃報を受け取った。 明日はレースだったが気が乗らなかった。 自転車競技を始めて、五十嵐さんの走る姿を見て憧れを持った。いつだっただろうか。確か3年ほど前の大磯(クリテリウム)だったと思う。その時、自分は大磯のピュアビギナーで2個歳下の三浦と戦ってた。勝率は五分五分だったと思う。 やがて国内最高レベルと呼ばれるJPRO Tourで走るようになった。ただチーム外で知っている選手と言えば五十嵐さんだけだった。Jrで最年少な自分は五十嵐さんを頼りに走っていた節
まず、目的が旅行では無いのに対し旅路という言葉は適切なのだろうか。しかし他の言葉が見つからないので旅路ということにしておこう。成田から先、色々なミステイクがあったのだが、自分としては面白く無いので自己中ながら割愛しておこう。また時が経ったときに紹介できれば、と思う。又、今回の旅路は決してお勧めしない旨を先にご承知頂きたい。 朝9時成田発ハノイ行きの便に乗る。ベトジェットエアという格安航空会社だ。 A320(型式は知らない)は小型故に風に煽られながら成田を飛び立った。評判では
石川クリテリウム 暑さに対する心配はなかったがウェットな路面にプラスして帰国後バイクも変わったので落車しないか不安であった。 安全第一に落車しないことが大前提でその上どこまで集団に粘れるかがターゲットだった。 序盤から中盤辺りに位置取っていた。番手を上げたいが中々上げられなかった。直線で上げる脚もなかった。中切れが生まれ鹿屋の選手とブリッジ。集団についても最後尾2人は身長が高くグレーチングがあったことからコーナーで付いては離れを繰り返していた。脚力的には余裕があったが心拍が下
今まで出た中で間違いなく一番大きな大会だった。過去にはマチューやレムコといった名だたるメンツが優勝している。ヨーロッパ中の選手が目標とする大会だと思う。 沖縄合宿から大会に向けて調子を上げていった。今までになく安定的に練習できていたし調子も上がっていた。 大会から1週間と少し。歯に痛みを覚える。様子を見るも2、3日と痛みが続いた。日が重なるにつれ痛みも増し、病院にも受診できずにいた。激しい痛みへと変わり一睡もできない日が続いた。何もできないまま時間だけが過ぎた。ようやく受
先に言っておこう。今回のレースレポートはかなり内容が薄くなるので余談を多く記そうと思う。 Stage2終了後、次走で宿舎に向かった。グラベルだった。パンクしそうになりながらこんなところに宿なんてあるのかと思っていた。しかし宿は本当にあって、それもまた行きたいと思うような美しい宿舎(山荘)だった。 夜ご飯は、、うーん、何を食べたか覚えてないがとにかく食後のチョコタルトが美味しかった。 洗濯機が無く、ジャージ一枚しか持っていなかったので仕方なく手洗いで洗うことにした。そして
落車から4時間後の出走になった。 サラダマカロニを食べてレースに備える。 レースが始まりチームからはアタックを潰せとオーダーされていた。オーダー通りアタックを潰した。コース特性的に逃げずらく逃げが生まれたとしてもレース中盤の標高差400mの山で吸収されると読んでいた。また中盤の山で千切れてもまたは中切れで集団から離れてもその後のくだりで追いつくと読んでいた。 予定通りにレースは進み山岳で集団かな離れてしまったがその後容易に追いつく事ができた。その後ラスト15kmくらいだろ
今回のレースはエリートと混走でフランスでは初めての経験となった。またチームスポンサーであるGiantのニューバイクで走ることになった。Stage1ではフランスネイションズカップに向けて逃げに乗ることが目標。 スタートが切られ前回のJrレース(MAPEI Clasic)より集団密度が低い気がした。とは言っても日本とは比べ物にならない。レースの進み方も日本とは別のスポーツのように違かった。 どのように違うのか、文章で表現したいところだが自分の表現力の低さからなかなか文面に変換
3月初旬、卒業式前日にドバイ、シンガポールを経由して直行で学校に着いた。レース会場のToulouseから52時間の帰路だった。学校に着いた時の安堵感たるや、何と表現すればいいのだろう、、。とにかく酷で内容の濃い物だった。しかしそれを書こうと思うとノート1ページ分はくだらないのでやめておこう。 そんなこんなでお世話になった先生方、友達に何とか感謝を伝える事ができた。自転車競技を始めて卒業までの高校3年間。また別の記事で記そうと思う。 それから1ヶ月間VISA申請に全力を注い
マルセイユか西に250kmほどフランストゥールーズに滞在しております。 実はスペイン合宿が終わり慣れない環境からかわかりませんが風邪をひいてました。 大会の三日前に治り病み上がりの大会になります。 レースレポート 集団の密集度が異常までに高い。整列の時点で日本のレースとはまるっきり違う。満員電車のように混雑していた。 ローリングが始まり市街地を走る。狭い道に130人が収まるはずもなく、我先と歩道を走るのが当たり前のように進んで行く。スタートが切られ集団のスピードが一気