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成長とは(中学生の主張)

こんばんは。咳しても一人の 関 仁 です。

今日は泊まりの業務があり、会社にて待機中です。そのため、会社のPCのデータの整理をしていました。

そこで、2つのワードファイルを見つけました。

1つは阿呆な内容で、もう一つは会社を辞める理由の一つでもある内容でした。会社を辞める理由について載せようかと思いましたが、暗すぎて仮に読んでくれた人が居た時に、嫌な気持ちになるかもと思ったので、阿呆な内容のほうを紹介したいと思います。

全文、そのまま載せますね。

「いろとりどりのせかい」

他者の成長を見て、喜ぶ。嬉しくなる。それが人の本能ではないだろうか。人に限らず、動物の本能ではないだろうか。特に哺乳類など一度に多くの子孫を産まない動物にとっては、成長を見届けることは生存本能に記された性質なのかもしれない。
なぜそんなことを思ったかと言えば、今日、ペットショップに行ったからである。
友達と大型のショッピングセンターに遊びに行き、洋服店やオモシロ雑貨店、駄菓子屋やゲームセンターなどを回りつつ、ペットショップにも立ち寄った。彼女らは「可愛い~」と小動物や犬猫を窓越しに眺めていた。僕はマンション育ちだからペットを飼っておらず、興味がなかったが、魚は飼えるのではないだろうかと眺めていた。
見たこともないような色の小魚や金魚がおり、綺麗だなとは思った。図体が大きくひげも長い魚もおり、さばけば食べられそうだと思った。
水槽に入っているのは、珍しく魚屋やスーパーには置いてない魚だったが、毒があるわけでもないのだろうから食べられるのだろう。食べることが目的なら、きっとこの魚たちは死んでも商品として売れることができるけど、そんな値引きコーナーはなかった。魚に限らず、みんなが可愛いと連呼する犬猫やネズミの仲間だってお肉としては食べられるはずだから、ペットショップで売れ残ったのなら、さばいて販売することもできるのだろう。
でも、そのようなペットショップは見たことがない。それは、ペットショップに来る人は、生きている動物を見たいし買いたいからだ。わざわざ自分の生活の中で費やす必要のない食費や生活維持費、まあそもそもの購入費を払ってでも動物を飼いたいのはなぜだろう。生きている動物に何を求めているのだろう。綺麗な魚を見たいなら、死んでホルマリン浸けにした魚のほうが一生、見られてお得な気がする。泳ぎはしないが。最近は水槽に映像を映しだし、あたかも魚が泳いでいるように見える水槽もある。
それでも、こんなに生きた魚が陳列されているのは、生きた魚を飼いたいからだろう。
生きた魚に餌をやり、水槽の掃除を定期的に行い、彼らが死なないように、生き続けてくれるように、成長してくれるように、人的・時間的・財政的コストを払う。コストを払って得られるのは、食べることを目的としないなら、精神的満足感だろう。
つまり、人は動物といった生命を成長させることに精神的満足を得られるのだろう。そんなことをするのは人間くらいだが、人間は大きな脳みそで人類以外の動物も認識し、愛を分け与える理性が備わっている。おそらくそれは種の保存として自らの子孫を産み育むという本能的慣習の一部であり、人の脳の中でその本能の対象範囲が拡張されたのだろう。オオカミが人の子を育てたという話も聞くし、哺乳類のような一度の出産で多くの子孫をつくらない種族にとっては子孫の成長を見届けるというのは大切な本能であり欲求なのだろう。
よく社会では、「成長は大事。」、「一生、勉強。」「子供を育てながら親も成長する」など自分や他者どちらの成長に関しても、良いイメージがあるし、むしろ成長できないとクズのように扱われることさえある。それほど、人にとっては成長とは大切なもので、生存と成長は切り離せないものなのだろう。
僕自身、誰かに勉強を教えたり、スポーツのコツを教えたりして、その教えた相手ができるようになると嬉しくなった経験はある。自分の種の保存とは関係なしに、相手が同姓で種の保存に役立つ訳でもなくても、教えたことでその人が一歩前進した、成長したと感じたら、ちょっとした満足感が得られた。
マンションで動物を飼えない環境のため、ゲージや水槽に入った彼らを可愛いや飼いたい、成長を見届けたいとは思わないが、同種ならそう思える。
したがって、人は他者を成長させて喜ぶ本能的感情があり、それは生理的欲求にも近いのかもしれない。他者を殺して楽しむ者もいるかもしれないが、それは他者に自己の本能の対象として認識できず、敵対する者として認識しているので狩りのように殺害するのだろう。また自分の力を示したいが為かもしれない。これは種の保存のために、まずは自分自身を守れるということを、自分は敵である他者よりも強いということを証明するために行うのだろう。吐き気しかしないが、そのようなものは他者の成長を喜べないのかもしれない。
命を奪わないにしても、敵対心を持った相手の成長は喜べないだろう。幸せな姿は成長の結果ともいえるが、隣の芝が青く見える瞬間は誰にでもある。結局のところ、自分が手に負える、手の届く範囲の他者に対してのみ、その者の成長を喜べるのである。
言ってしまえば、自分よりも弱い他者、非力な者、地位的に弱い者を対象として、かくまい、育て、成長させたいのだろう。
ゆえにペットショップでの彼女らの「可愛い~」は、cute ! というだけでなく、その裏では本人も気付かない心の一部で、可哀想にとも思っているのだろう。情けをかけているのだろう。それゆえに、飼いたくなり、買っていくのだろう。
そうなると、僕自身は、彼らに情けをかける余裕がないのかもしれない。
成長は必要だから、教育機関や教育期間があるのだろう。僕もその教育を受けている立場だ。これからも僕は何となく過ごしている世界の中で、物事の本質や理論に行きつくことがあるだろう。そのたびに、僕は一つ大きくなる。成長できるのかもしれない。

ご清聴ありがとうございました。

伊呂鳥取 中学校 2年
瀬一 洋 (せいち よう)


・・・・・・貼り付けたら、2500字を超えてしまった。これはこれで、読んでくれた方が居たら、なげーよ! っておっしゃるかもしれません。

お詫びします、すいません。だけど、有り難うございます。

おかげさまで、PCからのデータ移行が一つ終わりました。←


2022/2/19

せきひと

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