雑記:蜂須賀家と平島公方

阿波三好氏の菩提寺・見性寺のある見性寺に隣接する鳴門市には、四国八十八ヶ所一番目の札所である霊山寺がある(最寄り駅はJR高徳線の板東駅)。

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藍住町から南に下って吉野川を渡れば徳島市で、江戸時代は蜂須賀家の城下町で、蜂須賀家の居城であった徳島城は現在は堀と石垣などの遺構がある。

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城の入口には、1989年に復元された鷲の門が建っている。

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徳島城の北方の興源寺は蜂須賀家の菩提寺で、歴代藩主の墓所がある。

その中には、藩祖・蜂須賀正勝の墓もある。

「小六」の通称で知られる蜂須賀正勝の墓は五輪塔であるが、これは後になって造立された石塔である。

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徳島県の南方の阿南市那珂川町の西光寺には、平島公方の墓所がある(最寄り駅はJR牟岐線阿波中島駅)。

平島公方は阿波公方と言い、戦国時代の足利将軍家の内紛で阿波に逃れた十代将軍義稙に始まり、その養子義冬(義維、義稙と将軍の座を争った従弟の十一代足利義澄の子)は弟(兄とも)の十二代将軍義晴と争い、細川氏、三好氏の後ろ盾を得て堺に短期間に政権を築くが(堺公方)、最終的には政争に敗れて再び阿波に戻り閉塞している。

この義冬が平島館に住んだことから初代平島公方とされ、その後も代々この地に居して三好氏没落後も長宗我部氏の保護を受け、蜂須賀家支配には冷遇されたものの幕末までその家系は続いた。

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墓所内には義稙、義冬、そして義冬の子で一時三好三人衆に担がれて室町幕府十四代将軍となった足利義栄の墓もある(義栄は織田信長が足利義昭を擁して上洛すると再び阿波に逃れてその地で没したと言うが、摂津や淡路で没したと言う説もある)。

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下の写真は順番に義稙、義冬、義栄の墓であるが、いづれも同時代のものではなく、ずっと後代になって造られたものである。

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墓所内には、義栄以降の当主の墓もある。

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