南関東の石造物⑩:増上寺徳川家霊廟宝塔群・谷中霊園徳川家墓地宝塔群(田安徳川家、清水徳川家の墓)
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名称:増上寺徳川家霊廟宝塔群、谷中霊園寛永寺墓地宝塔群
伝承など:徳川秀忠、崇源院、徳川家宣、徳川家継、徳川家重、徳川家慶、
徳川家茂、和宮の墓(以上、増上寺)
田安徳川家、清水徳川家の墓(以上、寛永寺)
所在地:東京都港区芝公園 増上寺
東京都台東区谷中 谷中霊園内寛永寺墓域
芝の増上寺は徳川将軍家の菩提寺として知られる名刹で、かつては多くの塔頭を有した大寺院であった。
現在も東京タワーの眼下に大門や本堂などの伽藍が建ち並んでいるが、その一角に徳川家霊廟がある。
歴代徳川将軍とその夫人達の墓所は上野の寛永寺と芝の増上寺に営まれ、増上寺の霊廟には二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の墓がある。
墓塔はいづれも宝塔で、これは江戸時代には徳川将軍とその家族にのみ許された形式であった。
写真二枚目から順に、秀忠と崇源院、家宣、家継、家重、家慶、家茂、そして家茂夫人で孝明天皇の妹・和宮の墓塔である(家宣と和宮の墓塔のみ銅製の宝塔)。
このうち秀忠と崇源院の合葬墓のみは六角石殿であるが、他の将軍と形式が異なるのは、これが元来は崇源院のみの墓塔であったためである。
元来の秀忠の宝塔と、宝塔が納められた台徳院廟は木造で、戦災で焼失したために戦後になって崇源院の墓に秀忠が合葬された。
また、増上寺には六代将軍家宣(文昭院廟)と七代将軍家継(有章院廟)の霊廟も現存していたが、こちらも戦災で焼失し、石造・銅造の宝塔と文昭院廟の奥院中門だけが残り、中門は現在徳川家霊廟の門に転用されている(一枚目)。
八代将軍吉宗以降の将軍は、新規に霊廟を造立せず、宝塔のみを造立して既存の将軍霊廟内にまつる形式に変わったため(吉宗は寛永寺の綱吉の常憲院廟に合祀されている)、かつては家慶・家茂・和宮の宝塔も文昭院廟にあった(他にも五代将軍綱吉生母の桂昌院や、家宣正室の天英院の宝塔も廟内にはあったが、それらは現在他所へ移動している)。
なお、かつて徳川家霊廟は非公開であったが、2011年に大河ドラマ「江」の放送にちなんで特別公開を行い、その後2014年より毎週火曜日を除いて常時拝観可能になった。
写真は2011年の特別公開時に撮影したものである。
また、東京都内に残る徳川家墓所には、上野寛永寺内に存在した徳川家関係の墓塔があり、現在は歴代将軍、およびその夫人以外の墓所(寛永寺に葬られている将軍は四代家綱・五代綱吉・八代吉宗・十代家治・十一代家斉・十三代家定)は谷中霊園内に移設されており、その中には御三卿の田安家と清水家の墓域もある。
寛永寺墓域内にあるこのニ家の墓所は隣り合っており、田安家の墓所(九枚目)は鉄柵で囲まれていて柵の外からしか見ることが出来ない。
このうち、向かって右端にあるものが田安徳川家初代当主で、八代将軍徳川吉宗の次子・田安宗武の墓(十枚目)である。
清水家の墓所は田安家と異なり、特に囲いもなく石塔が並んでおり(十一枚目)、その中には清水徳川家初代当主で、九代将軍徳川家重の次子・清水重好の墓(十二枚目)もある。
田安家、清水家の墓塔はともに、江戸時代にあっては徳川家専用形式とも言うべき宝塔であり、寛永寺の徳川将軍家の墓所が原則非公開であるため、増上寺とあわせて江戸中期~後期の徳川家の宝塔の形式をうかがい知る数少ない事例である。
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