中部地方の石造物㊽:五智国分寺五輪塔群、附・光源寺五輪塔(伝・村上義清造立の供養塔)




名称:五智国分寺五輪塔群

伝承など:なし

所在地:新潟県上越市五智 五智国分寺


上越市にある五智国分寺は、奈良時代に創建された越後国分寺の後身寺院であるが、戦国時代に上杉謙信が現在の場所に移動して再興したものであるため、創建当初の場所は不明である。

境内の墓地には中世の石塔を集めた一角があり、その中には鎌倉時代に遡る五輪塔がある(一枚目、六枚目)。

五輪塔群はすべて完形にように見えるが、移動の際に乱積みになった可能性もあり、当時のままの状態かどうかはわからない。

このうち、向かって左側の二基(四枚目)は、鎌倉時代末期の造立と考えられ、地輪と火輪の丈が高いと言う北陸地方の五輪塔の特徴を持っている。

右側の五輪塔(五枚目)も、似たような特徴を持つが、こちらはやや下る南北朝時代の作と思われ、また本堂に向かって右側にも同時期と思しき五輪塔(七枚目)もある(ただし、水輪と空風輪は後補か)。

いづれの五輪塔も、おそらく国分寺の僧侶の墓ではないだろうか。

なお、境内には江戸時代末期に造立された三重塔もある(八枚目)。


五智国分寺の山門から東南方向にしばらく行った国府の光源寺は、親鸞の弟子・最信が開いた寺院とされ、上越における親鸞所縁の史跡の一つであるが、同寺の本堂裏の墓地にも五輪塔がある。

五輪塔は村上義清造立の供養塔とされ(かつては村上義清の墓と呼ばれており、その名残で現在も石塔の両脇には「村上義清建立の供養塔」と「村上義清の墓」の二種類の標柱が建っている)、北信濃の豪族で武田信玄に追われ、上杉謙信を頼った村上義清が先祖供養のために永禄十一年に建てたと言う。

造立年代が永禄十一年かどうかはさておき、確かに戦国期~江戸時代前期の造立であろうが、ただしこの石塔を五輪塔とするには違和感がある。

特に火輪と地輪は五輪塔のパーツと言うよりも、宝塔や宝篋印塔の部分のようであり(笠の上部には露盤があり、基礎部の上部にも五輪塔の地輪にはない段が見られる)、あるいは乱積み、もしくは水輪とそれ以外は別石かも知れない。

素人目ではあるが、火輪(笠)と地輪(基礎)は笏谷石のように思え、笏谷石製の石塔が多い福井県で似た例を探すと、越前町の丸山にある南北朝時代の宝塔がややこれと似ているため(ただし筆者は実物は未見で、写真で確認したのみ)、この石塔も元来は宝塔(あるいは層塔の一部か?)の可能性もある。

上越市内では戦国時代末期に堀氏に越前から越後に入部して以降、江戸時代にかけて笏谷石の石塔の作例があるため(「中部地方の石造物㊹」参照)、この石塔も堀氏、ないしは江戸時代前期の高田藩主・松平光長(越前藩主松平忠直の子、徳川家康の曾孫)時代に造立された石塔かも知れない(上越市の林泉寺墓地内には、元和の銘文を持つ多宝塔や、寛永の銘文を持つ笏谷石製の宝篋印塔がある)。

丸山の宝塔は塔身が球形に近いため、この石塔も水輪とされるパーツは宝塔の塔身の可能性もあるが、上部に頸部がないため、やはり別の五輪塔の水輪なのだろうか。

孤立的な事例であるため何とも言えないが、五智国分寺の五輪塔に見られる形式とは明らかに異なる石塔である。

五智国分寺のような火輪の丈の高い石塔は、南北朝時代以降は上越地域では見られなくなり、江戸期に高田藩主などが造立する五輪塔は全く別の形式であるため、石塔の形式の変化は、中世と近世で在地勢力が一変したことに起因するのかも知れない。

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