雑記:竹中半兵衛の故郷
岐阜県不破郡垂井町は、竹中氏の居館があった場所であり、俗に豊臣秀吉の「軍師」として知られる竹中半兵衛重治はこの地の菩提山城の城主であった。
元来この地は岩手氏が領していたが、重治の父の竹中重元が同地を奪取して菩提山城を築き、重治は斎藤氏没落後に織田信長に仕え、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の与力となった。
重治の子・重門の代に平時の居城として菩提山城の麓に岩手城を築いたが、江戸時代には竹中氏は旗本身分であったために岩手陣屋、ないしは竹中氏陣屋と称された。
現在、城の敷地は岩手小学校と民有地になっているが、その入口には石垣と櫓門が残り、堀や土塁も一部現存している(門の中は幼稚園となっている)。
また櫓門の傍らには竹中重治の銅像が建っている(下の写真一枚目)。
近年、JR垂井駅前のロータリーにも、同じ作家の手による重治の銅像が建てられた(下の写真二枚目)。
陣屋の南隣には青莪記念館があり、竹中氏や菩提山城に関連する資料やパネルを展示している(隣接する公民館が管理しており、入館は無料)。
青莪記念館の名は、江戸期に竹中氏が設けた学問道場である「青莪堂」に由来する。
資料館内には、竹中重治所用とされる甲冑が展示してあるが(下の写真一枚目)、これはおそらく後述する禅幢寺所蔵の重治の肖像画(下の写真二枚目、写真は資料館展示のパネルを撮影したもの)をモデルにした江戸時代の模作であろう。
なお、櫓門前の重治銅像は、この肖像画をモデルにしている。
実際に重治が所用したとされる甲冑は、現在福岡市立博物館が所蔵しており、これはめぐりめぐって黒田長政の所用になったためである(その前は福島正則の所有で、正則が重治の死後に形見分けとして与えられたものと言う)。
上の写真の甲冑の後ろに展示してあるパネルの甲冑がそれで、一ノ谷兜(源義経の一ノ谷合戦をモチーフとしたもので、鵯越の崖をイメージした兜と言う)と特徴的な兜を持つ甲冑であり、垂井駅前の重治銅像の甲冑は、こちらの一ノ谷兜の方をモデルにしている。
なお、資料館の入口にはこの甲冑の兜部分のレプリカが展示してある。
余談であるが、黒田長政は幼少時に織田家の人質になっており、父の如水(孝高)が荒木村重の有岡城に幽閉された際に、信長は村重との内通を疑って人質だった長政を殺すように命じたことものの、重治の機転で長政は命を救われたと言う著名なエピソードがある。
このエピソードを踏まえると、重治の甲冑が最終的に長政の所有に帰したことは因縁めいているようであるが、この話は一次史料では確認出来ず、また信長が如水の内通を疑って長政を殺そうとしたと言う事実もないため、後世作られた逸話であろう(そもそも秀吉の参謀として「二兵衛」と並び称される重治と如水であるが、両者の関係が親密であったことを示す事実自体がほとんどない)。
陣屋から北方に数分歩いた所にある禅幢寺は竹中氏の菩提寺で、境内の墓地には重元以下竹中氏歴代の墓所があるが、重元と重治の墓は普段は覆屋に納められており見られない(下の写真三枚目、四枚目)。
なお、近年重元と重治の覆屋は新築されている(四枚目が十年近く前に訪れた時の写真で、三枚目が現在の覆屋)。
重治の墓は五輪塔であると言うが、同じ墓地内にある重治の弟・重矩の墓(下の写真五枚目)とおそらく同型であろう(ただし、重矩の墓は乱積みの可能性がある)。
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