雑記:出島と唐人屋敷
長崎県の長崎市は、江戸時代の所謂「鎖国」下の中で、海外に開かれた四つの窓口のうちの一つであり、オランダと中国の清朝との交易で栄えた。
よく知られているように、オランダ商館は出島と呼ばれた人工の島内に置かれ、キリスト教に対する警戒もあって、長崎奉行の管理のもと、出島への出入は厳重に管理された。
近代以降、出島の原型は失われてしまい、その跡地が市街地に残るのみであったが、1990年代末から整備・復元事業が進み、現在は役所の門や倉庫、商館の建物などが復元され、往事の出島の家並みをうかがうことが出来る(出島は時期によって建物などに若干の異同があり、復元された出島は幕末期のものをベースにしている)。
出島の商館長は「カピタン(船長)」と呼ばれ、定期的に江戸に参府する義務があった。
商館長の館は、下記のように内部まで忠実に復元され、室内の見学も可能である(出島のオランダ人は商館長のもとに集まって食事をする習慣があり、下の写真二枚目はその際の食卓を再現した部屋である)。
復元事業が始まる以前から、出島跡にはミニチュアの出島が展示してあった(下の写真一枚目)。
ミニチュアのスペースに入る入口の石門(下の写真二枚目)は、オランダ商館の遺構とされており、オランダ東インド会社(VOC)のマークも描かれているが、実際にはオランダ大使館より寄贈されたものと言う。
出島から東へ徒歩数分行った所には、中華街で知られる長崎新地があるが、そのさらに東方はかつて唐人屋敷があった場所である。
唐人屋敷は、出島の建設より五十年ほど経った元禄初年に、密貿易(所謂「抜け荷」)の増加にともない、貿易のために長崎に居住していたり来航したりした清朝の人々(日本では当時彼らを「唐人」と呼んだ)を一箇所に集めて住まわせた場所で、周囲を堀と塀で囲み、やはり出島と同様に長崎奉行所が人や物の出入を管理した。
もっとも、唐人達は許可を得れば寺院などの参拝をしたり街に出歩いたりすることも出来、出島に比べると緩やかな管理であったと言う。
現在では、かつての唐人屋敷の正門のあたりに中国風の大門が建てられている。
唐人屋敷は天明年間の大火で焼失した後は、唐人達自らが建造物を建てることを許され、開国以降には機能しなくなって廃墟化していき、明治以降なると建物も解体されてしまって遺構はあまりないが、解体以降に華僑の人々によって建てられた会館や、大正期や戦後に元の場所に復元された堂宇が現在四つ存在する。
下の写真は、広島県立歴史博物館が所蔵する江戸期の唐人屋敷の絵図であるが、この絵図に描かれている建物の内、①の土神堂、②の天后堂、③の観音堂が現存している。
まず大門のすぐ先にある土神堂は、言わば中国の「土地神様」を祀った堂で、前述天明年間の大火で一時焼失した後で再建されたものの、昭和初期に老朽化のために解体されており、現在の建物は1970年代に復元されたものである。
土神堂から先へしばらく進むと、天后堂があり、これは航海の女神である媽祖(天后聖母)を祀った堂であり、媽祖は海を渡って来航する唐人達の崇敬された。
現在の建物は明治年間に再建されたものである。
堂内の中央には媽祖像が納められ、他にも関帝など多くの神像がある。
天后堂の北向かいの路地の奥には観音堂があり、現在の建物は天明年間の再建のものを大正年間に補修したものである。
観音堂の東側の階段を上った先には、唐人屋敷の塀の一部が復元されている。
残る四つ目の建造物である福建会館は、土神堂の北向かいにあり、これは唐人屋敷が廃墟化して以降、明治年間の後半に福建出身者によって造られた会館(メディアセンター)であり、厳密には唐人屋敷があった当時のものではないが、旧唐人屋敷の建造物として他の三つの建物と一括して扱われることが多い。
会館の本館は太平洋戦争末期の原爆投下によって倒壊してしまい、現在は媽祖堂が残るのみである。
なお、土神堂から天后堂に行く間にある蔵の資料館は(下の写真一枚目)、明治期に唐人屋敷の払下げを受けて同地の地主になった森伊三次の旧宅の蔵を利用したもので、内部は唐人屋敷についてパネルで説明するガイド的な施設になっている。
唐人屋敷に関するの資料館らしく、門扉の左右には門神(唐代の武将である秦叔宝と尉遅敬徳の二将)が描かれている(下の写真二枚目)。
これ以外にも唐人屋敷の遺構が長崎市内には現存しているが、それは別の機会に紹介したい。
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