雑記:武蔵坊弁慶の故郷

和歌山県田辺市は、江戸時代には紀州徳川家の付家老であった安藤氏の城下町であった場所である。

また、平安時代末期には紀伊田辺水軍のお膝元であり、源義経の郎党として知られる武蔵坊弁慶は田辺の別当湛増の子と伝承されていて、そのためJR田辺駅周辺は街くるみで弁慶を推している感がある。

まず、駅前のロータリーには、弁慶の立派な銅像が建っている。

画像1

田辺駅からほど近い、歩いて十分弱の所にある闘鶏神社(熊野古道の一部として現在世界遺産に登録)も弁慶ゆかりのスポットである。

ここは屋島の戦い前夜に、平家方だった田辺水軍を味方につけようと弁慶が湛増を説得に行った際、湛増は神意を問うべく神前で源平に見立てた鶏二羽を戦わせ、その闘鶏の結果でどちらに味方するかを決めたと言うエピソードの舞台である。

源氏の鶏が勝ったために、結局田辺水軍は源氏に味方するが、境内にはそのエピソードの基づく弁慶と湛増の像(下の写真三枚目)が建っている。

ただ、弁慶が田辺の出身と言うのはあくまで伝承の域を出ないので、当時の何かが残っているわけではない。

個人的には義経はあまり好きではないのであるが、最後まで主を見捨てずに運命をともにした弁慶には、忠臣好きの私としてはどこか心惹かれる所がある。

画像2

画像3

画像4

今ひとつ、田辺駅の近くには江戸時代の紀州徳川家にまつわる史跡がある。

駅から歩いて十分くらいの所にある法輪寺には、初代藩主徳川頼宣の近臣であった牧野兵庫頭長虎の墓がある。

境内にはこれと言った案内板はないが、長虎の墓は墓地の中にある石塔の中でも一際古いものなのですぐにわかる。

二基に並んでいる五輪塔のうち、向かって右側の五輪塔が長虎の墓(下の写真二枚目)と言う(五輪塔の造立年代は長虎が活躍した江戸時代前期よりも下るかも知れない)。

牧野長虎は徳川頼宣の引き立てられ、紀州徳川家の家老にまで出世した人物であるが、慶安三年になって突如失脚し、この田辺に幽囚の身となってほどなく没した。

この失脚の原因はよくわかっていないが、それゆえに想像が入り込む余地があるのか、創作作品などでは色々な形で描かれており、「慶安の変」の首謀者である由比正雪との関わりを持たせて創作されるケースもある。

私が最初にこの長虎を知ったのは、村上元三の小説『松平長七郎浪花日記』で、作中で長虎は主人公・長七郎の剣友であったが、実は長七郎を陥れる策謀をめぐらせていると言う悪玉として登場していた。

これを原作とした日本テレビの連続ドラマ「長七郎江戸日記」でも第一話で登場している(ただし全体的に小説とは設定が変わっているために、紀州徳川家の家老ではなく、旗本の「牧野主膳」と言う名前になっていた。演じたのは原田大二郎)。

また、由比正雪の陰謀事件と絡めた創作作品としては、神坂次郎の短編「兵庫頭の叛乱」があり、作中では長虎は由比正雪の乱が失敗した時に主家を守るためにその罪を一身に背負うと言う役どころで、突然の失脚も頼宣と長虎が示し合わせた上でなされたと言う解釈であった。

なお、長虎の没年は調べてもよくわからなかったのであるが、この神坂次郎の小説によると二十九歳で没したと言うことなので、これが史実通りだとすると随分と若くして出世した人物だったわけで才人のほどがうかがえる。

謎が多いゆえに興味の惹かれる人物である。

画像5

画像6


#和歌山県 #田辺市 #武蔵坊弁慶 #闘鶏神社 #田辺湛増 #法輪寺 #牧野兵庫頭長虎 #徳川頼宣 #長七郎江戸日記 #五輪塔 #兵庫頭の叛乱 #神坂次郎 #由比正雪の乱 #史跡 #歴史 #日本史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?