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オードリー若林、M-1グランプリ2024決勝の1ヶ月前にオファーされた「審査員という大役」を引き受けるまでの心境の変遷

オードリーはM-1グランプリ2008準決勝で一度は敗退するものの、敗者復活戦で這い上がり、最終決戦にまで駒を進めることになった。結果はNON STYLEの優勝で幕切れとなり、オードリーは優勝を惜しくも逃した。

そのM-1グランプリ2008での大健闘が翌年からの大ブレイクへとつながっていくわけであるが、その当時のことを振り返り、若林正恭は2021年12月25日放送のニッポン放送系のラジオ番組『オードリーのオールナイトニッポン』の中で、次のように語っていた(*1)。

「もしさ、自分がさ…本当に運がよかっただけの話じゃない。敗者復活できて。2009はもう絶対ありえなかったから。2007でもあの形(ズレ漫才)でやってるから。審査員変わらないから」

2008で敗者復活しなかったら、もう絶対売れてなかったと思うね、俺は。ただただ運がよかったっていうのはあるけど」

2008年当時、若林は30歳だった。実はこの時、オードリーは一つの「タイムリミット」を迎えようとしていた。

「オードリー解散」という世界線

「『あちこちオードリー』でさ、(錦鯉)渡辺さんに聞いて興味深かったけどさ。考えるじゃん。30でM-1だからさ。35の時とかさ、まだテレビの仕事なかったらどうしてたとか、たまにこのラジオでも喋るけど」

「辞めてただろうなって話になるよね、いつもね。春日の親が、30になったら強制的にやめさせるつもりだったんでしょ?

「だからお父さんに申し訳ないことしたよな。お父さんからしたら、『何してくれてるんだよ!』って思っただろうな、M-1見てて。だって、2月9日がタイムリミットだったわけだろ。春日に引導を渡す

30になったら、無理やりやめさせる予定だったんでしょ、両親が。それは30までっていうのは言われてはいなかったの?…知らないタイムリミットだったのか」

当時、これは春日の両親から春日へ言い渡されたことではなかったが、両親は「芸人をやめろ」と引導を渡す腹積もりだったようだ。

オードリーがM-1グランプリ2008で敗者復活戦を勝ち上がっていなかったら、という世界線であれば、オードリーは春日が30歳を迎えた時点で「解散」を選ばざるを得なかった可能性もあったわけである。

審査員を引き受けるつもりのなかった若林

M-1グランプリ2021のキャッチコピーは「人生、変えてくれ。」であったが、まさしくオードリーはM-1グランプリによって人生を変えられたコンビである。それから怒涛の2009年を迎え、そして今日へと至る。

M-1グランプリとの関わりで言えば、若林は2024年に審査員を務めるという大きな出来事があった。それまでは、ナイツ・塙宣之が審査員を務めていることに敬意を払うような発言はあるものの、自身が担うことについて積極的な姿勢は見られなかった。

2024年1月1日にテレビ東京系で放送された『あちこちオードリー』新春SPで、伊集院光から「依頼されたら、どうする?」と質問された若林は、「いや、僕は…できないかもしんないですね。来たこともないですけどね、オファーが」と語っていた。

「いや、まだネタやりたいんで。なんか審査員やってても許されるネタのタイプの人と、許されないタイプのネタってあると思うんです」

オードリーは、許されないタイプのネタだと僕は思ってて。…いや、こんな奴(春日)を横にしてさ、審査してる場合じゃないだろ(笑)なんだそれって。分かってるわけねぇだろっていう。一番恥ずかしいのが正当派タイプに高得点つけるっていう(笑)」

「ナイツとかと華大さんとかは、なんか許されるかなと思うし。格もあるしと思うんですよ。だから、僕は来たこともないすけど、なんかそれありますね」

この発言から1年足らずで、若林は審査員を務めることとなった。なぜその心境の変化があったのか、その理由について若林は次のように語っている(*3)。

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