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中山秀征は、ダウンタウンやウンナンに「負けを認めろ」というマネージャーの一言になぜ「救われた」のか?

中山秀征の芸能人生は「挫折」から始まっている。地元・群馬県から上京し、叔母を頼って下宿させてもらうなどしている中、オーディション雑誌『デ・ビュー』で「第2の吉川晃司募集」をしていた渡辺プロダクションのオーディションに応募する。

だが、歌や演技の才能も秀でるものはなかった。そこで声をかけてきたのが、後にマネージャーとなる関口雅弘だった。お笑い部門を設立した時期、「これからはバラエティの時代になる」と中山は言われる。

「バラエティで天下を取ったら、お前がやりたい芝居や歌もできるようになる」と説得され、中山はお笑い部門に活躍の場を求める。『オレたちひょうきん族』のひょうきんディレクターズ「ゲーハー佐藤」ことフジテレビの佐藤義和プロデューサー、放送作家の高田文夫に教えを請い、松野大介とコンビ「ABブラザーズ」を結成する。

歌や芝居は芸能界への「足がかり」ではあったものの、ともに結果を残せるほどのものではなく、笑いに活路を見出した形であった。

早すぎた人気のピーク

ABブラザーズはアイドル的な人気を誇るようになる。当時の人気について、中山は次のように語っている。

「凄くそれがアイドル的な人気に、当時なっていって。それで、ドラマの主演も始まるわけ。秋には日本テレビで『ハーフポテトな俺たち』っていう、レベッカの『フレンズ』主題歌の。あれが始まって」

「オールナイトニッポンも史上最年少でパーソナリティ4時間。土曜日、鶴光さんがやった後4時間だから、その重みも分からず始まっちゃうわけよ。昭和60年で、その17歳の時っていうのは、凄いスタートを切るんだけども」

1985年のABブラザーズ結成から、瞬く間に人気コンビとなっていく。だが、その人気もピークはすぐに迎え、下降の一途をたどっていく。中山曰く、「たかが3年ぐらいで時代が変わる」のだった。

ダウンタウン・ウンナン「お笑い第三世代」の台頭

フジテレビ系の番組『ライオンのいただきます』のアシスタントとしてレギュラー出演したことが、ABブラザーズの人気に火をつけた。そして1999年、そのレギュラーを降板したことも人気低迷の一因と言われている。

だが、それ以外の大きな要因もあった。ABブラザーズ結成の年、実はウッチャンナンチャンが『お笑いスター誕生!!』に出演している。そして、1988年にはフジテレビ系の番組『夢で逢えたら』に出演し、一気に知名度を上げていく。そしてその番組には、ダウンタウンが出演している。

ウッチャンナンチャンのブレイク、そしてダウンタウンの上京。「お笑い第三世代」という大きな変化がABブラザーズを飲み込んでいくことになる。

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