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有吉弘行、ウンナン内村光良が伝えた「仕事に向き合う上での姿勢」についての教え
2024年8月7日配信開始のYouTubeチャンネル『佐久間宣行のNOBROCK TV』の中で、テレビプロデューサーの佐久間宣行が、アルコ&ピースに「仕事が増えていった、一番のきっかけは何だったの?」と質問をしていた。
明確なものはないというが、平子祐希はその中でも「酒井は、有吉さんにどう言われたか分かんないですけど、僕は有吉さんに、『1個1個のことを丁寧にやるんだよ』って」
「『必ず見てるから。誰かがどっかで絶対見てるから。1個1個丁寧にやって、悪くなること絶対ないから』って言われて、その一言が大きかったんですよ。そしたら、後々知ったのは、それは昔、内村さんが有吉さんに言った言葉だったっていう」
「だから、『俺の雰囲気』とか『俺のディープな思考が』とかを全部なくした結果ですかね。…その頃だったら、食レポなんか普通にやってないです。でも、今は僕、一番食レポ丁寧ですよね、僕。誰かこっちでボケてても、俺は絶対ボケないですもん」
有吉弘行の低迷期を支えた『内P』
有吉弘行とウッチャンナンチャン・内村光良の関係といえば、やはり有吉が低迷期にあった時期、『内村プロデュース』で共演していたことを抜きでは語れないだろう。
有吉は2001年5月、「抜き打ちお笑い家庭訪問をプロデュース」で初出演した。当時は猿岩石から手裏剣トリオに改名し、まだコンビだった。そこから1ヶ月後には「手裏剣トリオ 第3の人生をプロデュース」で再び出演している。
ほぼ準レギュラーの状態で有吉は出演しており、当時の状況について次のように語っている(*1)。
「(2005年当時は)内村さんにお世話になってるかな、『内P』とかで。だからほぼ仕事ないね。『内P』だけ」
2005年は元日から『内村プロデュース』の「2005年新春お笑い修学旅行をプロデュース」企画にも出演している。品川庄司・品川祐に対し、「おしゃべりクソ野郎」とあだ名をつけて再ブレイクの一歩を踏み出した、いわゆる「おしゃクソ事変」は2007年8月23日放送の『アメトーーク!』である。まだまだ長く続く低迷期の中、やはり『内村プロデュース』は希望そのものだったはずだ。
当時の状況について、有吉はさらに次のように語っている。
「内村さんとかさまぁ~ずさんだけ、相手してくれたのは。(『内P』収録ない日は)何もしてないの。テレビはめっちゃ見てた」
仕事もなく、目減りしていく貯金残高に怯える中、テレビを見続ける日々。そんな中、たまにある仕事に臨む上で、内村の「必ず見てるから。誰かがどっかで絶対見てるから。(仕事を)1個1個丁寧にやって、悪くなること絶対ないから」という言葉を胸に刻んでいたのかもしれない。
高田文夫の存在
有吉の再ブレイクの大きなきっかけとしては、やはり「おしゃクソ事変」であるが、それ以外にも高田文夫の目に留まったということも、きっかけの一つとして挙げられるだろう。まさしく「誰かは仕事ぶりを見ている」ということである。
2012年4月、不整脈で一時心肺停止状態に陥っていた高田について、有吉は次のように語っていた(*2)。
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