ドイツ旅)フランクフルト④近代ドイツ語の父ゲーテ
前回からフランクフルトのゲーテの家「ゲーテハウス」を訪れています。ゲーテはどうして近代ドイツ語の父と言われるのか、その歴史についてひもといていきます。
若きウェルテルの悩み
前回の記事で紹介したように、ぐんぐんと教養を身につけたゲーテが20代半ばで書いたのが小説「若きウェルテルの悩み」です。自らの恋愛と友人の自殺経験に基づいてドイツ語で書かれたこの小説はたちまちベストセラーとなりフランス語、英語、イタリア語にまで翻訳されます。
ドイツ文学界はこうした悩みを抱える若者を主題にした小説のブームが巻き起こります。「疾風怒濤運動(シュトゥルム・ウント・ドラング)」と呼ばれ、理性よりも感情を重視し、ロマン派の先駆けとなります。
各地の講演会に引っ張りだことなったゲーテは、17歳のヴァイマル・アイゼナハ公国の当主から政務を任されたいといわれ、政治家の道を歩むことになります。
「この場所から、そして本日この日から、世界史に新たな時代が始まる」
財政や産業、教育政策の改革に取り組んだゲーテを待っていたのが、フランスのナポレオンです。ナポレオン率いるフランス軍にプロイセンを中心としたドイツ諸侯軍がヴァルミーの戦いで敗れると、ゲーテは上記の言葉を述べました。
ナポレオンはゲーテと面会すると「これこそ人物だ!」と激賞しました。ナポレオンは若きウェルテルの悩みの熱心な愛読者だったからです。ゲーテも秩序の回復者としてナポレオンを好ましく思っていました。
その後政界の一線から引いたゲーテは晩年、「ヴィルヘルムマイスターの遍歴時代」などの傑作を飛ばし、亡くなります。
近代ドイツ語の父
それではなぜゲーテは近代ドイツ語の父といわれたのでしょうか。
当時のヨーロッパの共通語はフランス語で、貴族が外交の場でも使われていました。その前まで共通語として使われていたラテン語は宗教改革を経てカトリックの言葉としてとらえられるようになりました。また条約の文章でも、厳密に意味を表現できるフランス語は便利なものでした。
これに反発したゲーテは自らの著作をドイツ語で出版することにこだわり、ベストセラーとなりました。グリム兄弟もドイツ語にこだわり、ドイツ文学界には国民主義と呼べる流れが出てきます。
これを下敷きにして、近代ドイツ語文法も作られ、同時にナポレオン戦争で生じたドイツナショナリズムと合わせて、ドイツ統一国家の誕生が模索されることになります。
グーテンベルクの活版印刷
フランクフルトを歩いていて見つけたのが、活版印刷術を発明したグーテンベルクの銅像です。グーテンベルクはフランクフルトに近いマインツの出身で、フランクフルトにもしばしば訪れました。
宗教改革でルターが取り組んだのは、ラテン語の聖書のドイツ語への翻訳でした。聖職者しか読めないラテン語ではなく、市民が読めるドイツ語にすることで、「聖書のみ」の立場をとるルターの流儀の実践を促しました。
この聖書は印刷によって大量配布され、近代ドイツ語の文法の基礎となりました。ドイツ語を生み出し、ドイツ国民のゆりかごになった都市として、フランクフルトは輝いています。
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