2-3-5-2. 唐の滅亡と東部ユーラシアの変動
遣唐使はなぜ停止されたのだろうか?
894年、菅原道真の建議により、遣唐使が廃止された。
唐の治安の悪化や海上交易の危険などが主な理由だ。
だが、そのほかにも原因がある。
古来、仏僧は遣唐使に随行し、中国に入ることが多かった。
しかしこの円珍という僧が唐に入ったのは、新羅(しらぎ)の商人の船に乗ってのことだった。5年の歳月を経て、858年には唐の商船で帰国する。
要するに、唐はかつてのように公的な使節ではなく、商人による往来も認めるようになったのだ。
平安貴族の愛した「唐物」(からもの)
平安時代中期は、藤原氏の摂関政治の全盛であり、国風文化の栄えた時期にあたる。
だがそれは、中国文化が排除され、”純和風”の文化が成立した、ということを意味するわけではない。
むしろ日本の朝廷、貴族や寺社は、こぞって唐の文物を「唐物(からもの)」と呼び、商人に大金を出し、こぞって輸入したのである。
中国には、西アジア方面からアラブ商人やペルシア商人といったイスラム教徒の人々もさかんに来航するようになっていた。
9世紀の海域世界は、東西交流の花開く時代であったのだ。
ムスリム商人に打撃を与えた黄巣(こうそう)の乱
しかし、それが暗転する大事件が起きる。
塩の密売人による大反乱である黄巣(こうそう)の乱だ。
反乱勢力は貧農や流民を吸収し、江南を占領。
さらにムスリム商人の拠点のあった広州も占領し、ここにいた外国商人の多くが殺害された。
これを受け、ムスリム商人は拠点を東南アジア方面へと移さざるをえなくなった。
結びつく遊牧民と商業民
内陸ユーラシアにおいても変動が起きていた。
8世紀半ば、アッバース朝が西アジアのバグダードを拠点に大帝国を建設すると、その勢力はカスピ海の西、アラル海に注ぐアム川・シル川流域にまで到達。
この地はソグディアナ(ソグドの地)と呼ばれるように、中央ユーラシアから中国をまたにかけて活動する商業民ソグド人の拠点であった。
ソグド人は東部に拠点をうつし、モンゴル高原を中心とする騎馬遊牧民ウイグルと結びつくことになった。
遊牧民と商業民が協力関係に入ることは、なにも珍しいことではない。
だが、この時代には、この両者が草原とオアシス地帯に拠点を保ちながら、南部の農耕地帯に進出し、農耕民を文書行政によって支配する国家を建設するようになる。これを森安孝夫氏は、中央ユーラシア型国家と呼ぶ。
森安氏によれば、遊牧民・突厥と、商業民ソグド人の血を引く安禄山のおこした安史の乱も、同様の国家体制を建設しようとし、失敗した事例であったとみることができる。
そもそも唐は、騎馬遊牧民を軍の主力としていた。
安史の乱のときも、唐はトルコ系のウイグルを活用して、反乱を鎮圧したのである。
そういうわけで、農耕エリアの唐と、遊牧エリアのウイグルや吐蕃(とばん)、オアシス都市のソグド人のコラボレーションが崩れ、唐はオアシス都市の支配権を維持することができなくなる。
そこで9世紀には、トルコ系のウイグルと、チベット系の吐蕃が、唐とともにオアシス地帯の富をめぐり角逐する体制がうまれた。
唐にかつての勢いはない。
ウイグルとチベットと唐の三国は820年に会盟を結び、にらみあう形勢となったわけである。
こういう見方は、中国の王朝のみに注目していては、決して浮かび上がってこないものである。
かくして10世紀には、中央ユーラシア型国家と呼ぶトルコ系の国家が、中央ユーラシアの遊牧地帯と農耕地帯の境界領域に、数珠つなぎに並立する情勢がうまれることとなったのだ。
以下に森安氏の解説を引用しておこう。
興亡の世界史シリーズの中でも、特にスリリングな巻の一つだ。
この書とともに唐国の内的な視点、さらに海域アジアからの視点を合わせ見ることで、より多面的にこの時代の相貌をとらえることができると思う。
東部ユーラシアという考え方
「中国の歴史は従来「東アジア」と呼ばれてきたスケールではなく、中央ユーラシアも含めた、より広い領域を含めてとらえるべきである。」
近年、このような見方が支持されるようになり、採択された教科書の多くが採用している。
この用語の議論については、黄東蘭「「東部ユーラシア」は「東アジア」に取って代わるのか─近年の「東アジア世界論」批判を踏まえて」(2020)『愛知県立大学外国語学部紀要』52 が簡潔だ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊