【ニッポンの世界史】#19 「戦前」やアジアと向き合う世界史は可能か? : ロストウ・ライシャワー・竹内好
高度経済成長と近代化論
安保闘争が岸信介の退陣により急速に沈静化すると、政治の季節は経済の季節へとうつりかわります。GNPやら経済成長率やら、経済学者しか使わなかった用語が、国民の人口に膾炙するようになっていく。
「いざなぎ景気」や「三種の神器」といういずれも皇室と関連する言葉を用いたネーミングが、経済成長を象徴することばとして流行したことは、日本人の自信回復のあらわれでもありました。
思い起こせば、1945(昭和20)年に戦争が終わり、「間違っていた」とみなされるようになった明治以降の戦前の歩みを、正しい方向に修正するために、アメリカやソ連から新しいものをもちこんで、それでもって日本を生まれ変わらせようとしてきたわけです。
その一つがソ連のマルクスの唯物史観でありましたが、高度経済成長が本格化する1960年代になると、代わってアメリカの打ち出す経済成長の理論が日本に移植されるようになります。
特に1960年代には、アメリカの経済学者ウォルト・W・ロストウ(1916〜2003)の「近代化論」と、ハーバード大学で東アジア学を立ち上げ、1961年からはケネディ政権下で日本の親米化を推し進めたライシャワー駐日大使(1910〜90)の「日本の封建制再評価説」はとりわけ大きな影響力をもちました。
ロストウの近代化論
ロストウはアメリカ合衆国の経済学者で、1961〜69年までケネディ大統領、ジョンソン大統領のもとでの政策ブレーンとなった人物。
彼は『経済成長の諸段階―一つの非共産主義宣言』(1960年刊行)の中で、経済成長が国民所得に占める投資率に応じて、①伝統的社会、②離陸の準備、③離陸、④成熟への前進、⑤大量消費社会の5段階で進歩していくとし、貧しさを抜け出すための適切な処置を施せば、途上国は社会主義に向かうことなくアメリカ型の消費社会に発展(「離陸」=テイクオフ)していってくれるはずだと主張しました。
テイクオフさえしてくれれば、ソ連の側にはなびかず、革命も起きないというわけですね。
ただ、ロストウの考え方は、やはり同時期に途上国に接近していたソ連の社会主義が基盤としたマルクスの唯物史観と、経済による社会発展という面で同じ穴のムジナです。
なにしろ近代化と産業化は20世紀後半の世界共通のプロジェクトでありました(富永健一『近代化の理論』講談社、1996)。
欧米の近代化に欠けた部分を途上国に見いだす考え方を「近代化論」といい、その後の開発援助の典型的な前提となっていったのです。
しかしロストウはマルクスの「生産力」概念をしりぞけ、投資を発展段階の基準とするとともに、経済以外の人間のさまざまな欲求を認めた点で、ソ連に対する対抗理論の役割を果たします。
このことは『経済成長の諸段階』が「一つの非共産主義宣言」という副題をもっていたことからもわかります。
ライシャワーの封建制再評価説
一方のエドウィン・O・ライシャワーは、アジアのなかで日本が近代化できたファクターについて考えようとします。
西洋と日本にしかなかった封建制度が、強い国家意識、法的観念、企業精神のような近代化要因を育てたためだとして、たいへんな議論を呼びました。トインビーや梅棹忠夫とよく似た考え方であり、ようするにこういった議論が受け入れられる土壌が、経済成長とともに自信を深めつつあった当時の日本社会に芽生えていました。
当のライシャワーの真意は、アジアのなかで唯一日本がここまで近代化に成功したのであれば、この優等生のモデルをアジア・アフリカなど韓国など「後進国」の近代化の模範にすることができるのでは、という期待にありました。
そこで彼は、マルクス主義に打撃をくわえつつ、安保闘争でもりあがった民主化や反米的なナショナリズムの政治的エネルギーを、経済的な近代化へと逃がそうと手を尽くします。
ライシャワー説に対し、戦後の進歩的な知識人の多くは、批判的です。日本が戦争に負けたのは、日本に封建的な制度がたくさん残されていたからだという前提に立っていたわけですからね。
そこで彼は、大学人・ジャーナリストをはじめとする論壇人にアプローチをかけていきます。『中央公論』では1961年5月号から多くの論考や座談会が組まれ、ライシャワーもそこに積極的に参加しました。「ライシャワー・ブーム」です。なにせハーバード大学の日本史専門家が、日本がアジアで唯一西欧由来の近代化を果たした国であると褒め称えてくれるのですから大騒ぎです。戦後まもなくの”日本小国論”の反動から、”日本大国論”が議論され出したり、先ほどの林房雄の『大東亜戦争肯定論』が話題となったのもその流れのなかでのことでした。
ライシャワー説をめぐる論争は、明治以来の日本の近代化の歴史を、世界史のなかでどのように再定義するかという問いでもありました。
歴史学研究会は1961年の大会テーマを「世界史と日本の近代」とし、ライシャワー説を批判的に分析しました。社会学者の清水幾太郎(1907〜88)は1963年12月の『中央公論』で近代化論への「転向」を宣言しています。
竹内好のめざした「健全なナショナリズム」
このロストウとライシャワーの見方のいずれにも異議を唱えて注目された論壇人に、前回ちょっとだけ紹介した中国文学者の竹内好(1910〜77)がいます。
竹内好のキーワードのひとつはナショナリズム。戦後の日本では「ナショナリズム」は天皇制と結びついた悪い意味をもつ言葉でありましたが、1950年代には中国やインドで民族独立運動が巻き起こると、このアジアのナショナリズムに学ぶべきところがあるのではないかという議論が起きました。政治学者の丸山真男は、日本のナショナリズムは反動勢力に流され、悪しきウルトラ・ナショナリズムになりがちだと指摘するのですが、竹内はどうすれば良いナショナリズムを構築できるか、模索します。
そのさなかに起きたのが安保闘争でした。
竹内は安保闘争に、日本国民が自分たちの手で、国の独立を勝ち取るさまをみて、およそ100年前の明治維新を想起します。明治維新を、植民地化の魔の手しのびよるアジアにおいて、一国の独立を守り抜いた出来事として評価し、これを事実上の半従属的状況にあった日本の対米安保闘争とダブらせたのです。
竹内の理解では、明治維新が、アジアを脱して西洋に向かうベクトルであったのに対し、安保闘争は、その構図を逆転させて、西洋から脱してアジアに向かうベクトルとしてあらわされるでしょう。
司馬遼太郎が『龍馬が行く』の連載を古巣の『産経新聞』で開始したのは1962年のことです。
李東俊は、トラック1台分の資料をよみこむ伝説で知られる司馬が、ライシャワーの教え子で近代化論者であるマリウス・ジャンセンの『坂本龍馬と明治維新』(原著はSakamoto Ryoma and the Meiji Restoration, 1961)に目を通していたことを指摘しています(李東俊)。
ライシャワーの「日本再発見」は、歴史大衆小説の描き出す「明るい明治」を通して一般社会にまで浸透していったのです。
1963年9月には、かつて座談会「近代の超克」にも参加した作家・文芸評論家の林房雄(1903〜75)が『中央公論』誌上で「大東亜戦争肯定論」の執筆を開始。あの戦争を、ヨーロッパ白人の植民地化に抵抗せんとした「東亜百年戦争」だったとの主張を展開していました。
大東亜戦争がおきたのは必然であって、植民地解放をめざすものだったのだという林の説に、竹内はくみしません。
しかし、アメリカの影響をつよく受けた「戦後民主主義」のいうように戦前の歴史と戦後を切断するのもおかしいという点で、2人には共通の足場がありました(劉金鵬「1960年代における革命理想とアジア主義」、49頁)。
戦前と戦後を切断するのでない仕方で
戦後民主主義は、日本の歴史と、それをとりまく世界の歴史を、1945年をもって「戦前」と「戦後」に切断します。
これでは歴史の成り行きがつかめなくなってしまう。
それに代わる理論として竹内は「近代化」を採用します。
しかし、ここで竹内は、近代化を量的な一元的見方でとらえるロストウにも、日本にならえばアジア・アフリカの近代化は可能だとするライシャワーにくみするわけではありません。
日本の近代化にはやはり、ほかのアジア諸国と比べ特殊な面があったという視点をとります。
講演をもとにした「方法としてのアジア」では、植民地化に対する民族的抵抗のなかから出てきた近代化の類型として中国とインドを挙げ、日本はこの2つとも違い、むしろトルコに近いのではないかと述べています。そしてしかも類型はおそらく2つ以上はあるというふうに言っている。「アジア」とされる地域で起きたものなら何でも「アジア的な近代化」になるというわけではなく、ヨーロッパの近代化とは別の論理や心情にもとづく「アジアの近代化」の諸類型があるんじゃないか。つまり、アジアを実体として考えるのは間違っている。
ましてロストウのように、日本の近代化が欧米的な近代化の踏襲であり、それを模範としてアジア諸国を近代化させようなどということは論外だ。そもそも日本の近代化は、かつて夏目漱石が早晩ボロがでると論じたように「皮相」なものにすぎず、インドや中国のような民族が主体的につくりあげていったものではないところが欠点だとも述べています。
むしろ、西洋が生かしきれなかった「優れた文化価値」を、西洋ではない方法論によって、より大規模なかたちで実現できるのではないか。そう構想するのです。
このことを言っている有名な箇所で、竹内は「西洋をもう一度東洋によって包み直す」と、印象的なしかたで表現しています。この部分の前段部分をすこし長めに引いておきたいと思います。
そういうわけですから、もちろん日本がアジアを代表するのだとおごったり、アジアとは関係のない美点があるとしたりと、過度に特別視するのはよろしくない。
けれども同時に、明治維新や安保闘争の経験は、そんな日本が国民としての主体性を発露した重要な契機であったと評価するのです。
しかし戦前戦後の切断は、それを忘却の彼方に追いやってしまっている。それはよくない。そのような健全なナショナリズムは育てていくべきだ、と考えていました。
竹内は安保反対派だけでなく賛成派の知識人、たとえば福田恒存(1912〜94)や江藤淳(1932〜99)など、論壇で保守的な位置を占める人たちとも積極的に対談しました。なんでも是々非々にとらえ、ドグマ的にかんがえる人ではなかった点が、竹内の魅力でもあります。
たとえば明治以降の戦前は「全部ダメ」だという風潮に対して、1964年10月の桑原武夫(1904〜88)(梅棹忠夫と同じく日文研を拠点としたフランス史家)との対談では、つぎのように語っています。
かといって竹内は「全部良かった」と言っているわけではありません。
戦前のことなど何もなかったかのように切断=忘却してしまうことが、日本の前途にとってよくない。
それを承知で、国家が主導する形で生み出されるナショナリズムがあるとすればなおさらで、それは「悪しきナショナリズム」だ、ということを言っているわけです。
このように、日本の近代とは何か、アジアとどのように関わっていくべきかという問題は、日本が世界史をどのようにとらえるか、世界史における現在地をどのように認識すればよいかという問題と不可分です。
にもかかわらず、先の戦争中の「近代の超克」や「世界史的立場と日本」における京都学派の議論を最後に、議論の途中で打ち捨てられてしまっていた。
それを再度掘り起こした竹内好の姿勢は、歴史を過去に「あったもの」として固定化し善悪を判断するのではなく、「読みなおし可能なもの」ととらえるものでした。歴史に潜って現在の動向をとらえ、その上で現在の動向を歴史の側から読みかえる「反作用」を介する。
この時事と歴史との対話を通して、西洋的な視点がいやがおうにも染み込んでいた従来の「ニッポンの世界史」を、戦前と戦後の「接続」と「方法としてのアジア」の視点をとりいれることで再定義しようと試み続けた竹内は、まさに1960年代を代表する「世界史家」であったととらえなおされるべきだと思います。
おもな参考文献
・竹内好『状況的』合同出版、1970
・竹内好『竹内好評論集〈第3巻〉日本とアジア』筑摩書房、1966
・竹内好『近代の超克』筑摩書房、1983
・林房雄『大東亜戦争肯定論』番町書房、1970
・李東俊「ライシャワーの文化冷戦と日韓関係の変容(その1)」『北九州市立大学外国語学部紀要』151、27-87頁、2020
・劉金鵬「1960年代における革命理想とアジア主義—竹内好のアジア論を中心に」『広島大学文学部論集』81、2021年
・鈴木洋仁「「明治百年」に見る歴史意識—桑原武雄と竹内好を題材に」『人文学法』105、117-139頁、2014