産業革命が起こっていたころのイギリスでは人口が急に増え、全体として国の富は増大。
しかしその反面、労働者の生活は悲惨で、ろくな生活を送れていない人も増えていた。
”AIによって人間の仕事が奪われる“という話が話題になって久しいけれど、この時代にも同じように「機械のせいで仕事を奪われた!」という不満がおこっていた。
1810年代になると、”手仕事“の職人さんたちが、工場の機械をぶっこわす「うちこわし運動」も起きた。
リーダーであったというネッド=ラッドにちなんで「ラダイト運動」とも
いうよ。
テクノロジーの進歩は、人間の生活だけでなく働き方にも影響を与えるものなんだね。
工場主のオーウェンのように、「これじゃいかん」と労働者の働き方改革に乗り出す人もいた。オーウェンは、労働組合や協同組合を設立。協同組合は現在のコープにつながるしくみだ。
「みんなではたらいて、みんなで分け合う社会(共産社会)」を建設しようともするけれど、こちらは失敗している。
彼は、急速に組み上がった「資本主義」というシステムが、「資本家たちが労働者を搾取することで成り立つシステム」だということを早くから見抜いていた。そこで、「労働者がつくりたいものをつくり、資本家にしばられない生活を送る」ための根本的な改革をいくつも実行。今風にいえば “多動” な活動家だった。
労働者にまつわる問題が多発するにつれ、いよいよ国が動いた。
1832年に選挙法が改正された翌年、1833年に年少者の労働時間を制限する工場法が制定された。
児童労働を禁止する工場法自体は19世紀初め以来何回か出されていたんだけれど、1833年の法で初めて工場に対する国の監督する権力を認め、抜け穴を防ごうとしたんだ。
当時問題になっていた女性の長時間労働や、危険な作業についても、しだいに規制の網は広げられていくようになったよ。
サン=シモンとフーリエ
フランスでも同様に労働者を保護する方策を考える人が現れた。
サン=シモン(1760〜1825年)や
フーリエ(1772〜1837年)のプランが有名だ。
彼らは、テクノロジーの進歩によって社会が豊かになっていくこと自体を否定したわけじゃない。
たとえばサン・シモンは貴族階級が富を無為に独占していることが、社会を進歩から遠ざけていると主張した。
なお、サン=シモンの思想は、死後も「サン=シモン主義」として受け継がれ、その一派は宗教的な性格すら帯びたが、ナポレオン3世の時代にさまざまな事業として実現されていくこととなる。
ルイ=ブランとプルードン
その後ルイ=ブラン(1811〜82年)という人は、労働者階級として初めて閣僚入りし、失業者向けの公共事業として労働者に国が与えるしくみをつくろうとした(が、失敗)。
一方、プルードン(1809〜65年)という人は、もっと突き抜けた主張を展開。
「そもそも国なんてものに権力を集めるから、人々は平等ではなくなるんだ。人間にとって、国なんてないほうがいいんだよ」と無政府主義を主張している。
激「あたらしい社会」をどんなふうに構想するかをめぐり、さまざまな意見が飛び交っていたんだね。
一般に、こうした学者たちのことをまとめて「社会主義者」という。
あたらしく出現した産業社会に対応した、経済活動のあり方を考えた人たちだ。
そうした社会主義者の中で、現実の世界にもっとも多大な影響を与えた思想家がいる。
ドイツ生まれのエンゲルス(1820〜95年)と、その友人マルクス(1818〜83年)だ。
彼らは、先行する古典派経済学(アダム=スミスやリカードの学説)や、それに反対する社会主義を入念に検討し、それらが持っていた “落とし穴” を徹底的に追究。
本当の意味で人類の社会が”みんなハッピー“になるためにはどうすればよいかを壮大なスケールで描き出し、人々に衝撃をあたえた。
彼らによると、「労働者が各国で政権を獲得し、その政権どうしが国際的に手と手をつなぐことによって社会主義が実現する」のだという。
この思想は、マルクス主義とよばれ、1848年に発表された『共産党宣言』によって広く知れ渡ることとなった。
そして、歴史的な経済体制の発展や、イギリスを中心に組み上げられてきた古典派経済学の学説を批判することなしに、”絵に描いた餅“のようなユートピアを主張するだけの、サン=シモンやフーリエらほかの社会主義者たちは、みな「空想的社会主義」だ。
自分たちの学説こそ、ほんとうに実現可能な「科学的社会主義」なのだと主張した。
マルクスとエンゲルスの思想は、さまざまな人々の解釈も加わって、19世紀後半以降のヨーロッパ内外の世界に大きな影響を与えることになるよ。